http://d.hatena.ne.jp/rulia046/20050810/p2
>……うう。むつかしくてよくわかりません。
>あー。よくわかんないけど、いいか。
 あうあー。小難しそうに見えることを書いているときって、自分でも良く意味が分かってないときなので。ので、「よくわかんないけど、いいか」でご返答いただけたことを大変に嬉しく思います。


>僕は「これは成熟と喪失の青春小説ではまるでない」はカウンターにしたって大振りすぎだろ、と思ってるわけですね。
 あそこでのカウンターの意味は単純に反撃とかアンチぐらいに思っていただけると。いわゆる格闘技的な喩えとしての「カウンターブロー」――相手が密かに依っている何らかの前提なりジレンマなりにコンパクトな一撃を加えることで、相手の破壊力をそのまま相手自身に返すこと――とは少し違うです。その意味でのカウンターブローを狙ってたのは、どちらかというと僕自身の「でも、あのエピローグが無いと正直ダサいじゃん?」の方かもしれませぬ。上手く機能したかというと疑問ですけども。


>仮にエピローグしか無かった場合を想像してみてはどうか? ぺらぺらの人間賛歌(?)だけ読まされたとしたら?
「人間賛歌」の内実に関しては、その、前回書いた「スキズマトリックスは人間賛歌」というのが言いたいことのほとんど全部というかオチだったりします。(暇な人は、「幼年期の終わり」「ブラッド・ミュージック」「スキズマトリックス」の対比、という古来からのテーマを考えてみるのはどうかしら)


>つーか、エピローグで単純にカウンター(逆向きのベクトル)当てちゃったら「物語の二段ロケット」になんないじゃん。
 涼が宇宙観を語り始めたところから、僕にとってはカウンター(というか「浮かせ技」?)ロケットの第一段燃焼が始まってた気もします。


>で。「である」「けれど」よりむしろ「だから」「そして」の物語やも、とかゴーストが微弱電波で囁く。
 うわあ。その手の話は本当に難儀なので「である」「けれど」だけで局地的ゲリラ戦をやっていたのですがーがーがー。ところで。
・未来へ進んでいく事が出来た。「そして」誰かがどこか/いつかに居てくれた。
・あんなにも美しい星に行った。「そして」そこには、かつて目に見えなかった花が一つあった。
というのは、どうなんでしょうね。

もう一つ。
http://d.hatena.ne.jp/rulia046/20050817/p1

>一人称小説であり、ある種の叙述トリック、まあ、構成による効果なんだけど、それでも本文そのものが、実は2030年代だかに書かれた回想録だという設定がエピローグで明かされる。
一番の叙述トリックは、冒頭に挿入された辺里市の地図が「平成15年現在」という(僕らから)ほんの少し過去のものだったことだ、と僕は思っているのですが。最初から主人公の語りは「これは回想だよ」とクドいほど強調されているんですが、じゃあどの地点から回想しているんだろうと考えたとき、僕らとそう変わらない時代から主人公が「ほんの少し過去」を振り返っているかのように読者はミスディレクションされてしまうように思います。このミスディレクションによって、エピローグのスピード感が激増するわけで。
「あれ? せいぜい大学生になった主人公が高校時代を振り返っているような話だと思ってたんだけど、もっと先に話が進んじゃうよ。あれあれあれ?」てな具合に。


>つか。まるで。なろうと思いさえすれば、選びさえすれば自転車の設計家にぐらいなれるに決まってる。かのごとき口っぷり、ハイスペック人間、ムカツキュー。きえええ。
>大雑把にいえば「高いもの買えば長く使えるよ」程度の内容のコピーに乗せられてモールトン買ってしまうよーな、というか買ってしまった高校生は駄目だ。自転車デザイナーに向いてねえ。なれねえよ。ものの順序がわかってねえ。
 僕は自転車には詳しくないですしアレックス・モールトンに乗ったことも無いですが、少しだけ。
 何故あそこに出てくる自転車がモールトンでなくてはならなかったかというと、やはりそれはバックミンスター・フラーとの絡みではないかしら。つまりは、両者ともトラス構造の神様だかイデアだかの顕現であって、構造力学を可視化してくれる存在なわけです。そして主人公がそれらの中に視るものは、

 地面の起伏がタイヤの空気圧とサスペンションを経由して、体全体にしみ込んでくる。街の歴史を、僕と自転車はトレースしてる。過去は、あちこちに(細い路地や、川の曲がり具合や、もしかしたら風の中にさえも)積み重なり、堆積し、つまりは積分されているからだ。
(2巻冒頭)
といった、都市や地理への目線と重なり合って、そしてエピローグでの主人公の進路決定へと(ベタベタに)繋がっていくように思えます。つまり、主人公にとってのモールトンの位置付けというのは作中から「単なる高価な自転車」ではないように思います。

 主人公によるとフラーを熱烈に愛していたのは響子だということになっているのですが、主人公の皮肉っぽい口調の裏には彼自身の「フラー的なもの」に対する愛が潜んでいるようにも思えます。
 妄想的な読み方をしてみるならば、響子というのは趣味の悪いミーハー的なところがあって、究極的には「フラーという悲劇の天才」を彼女は愛してるようなところがあるのですが、それに対して主人公はフラーの背後にあるものを視ようとしているように見えます。「師を見るのではなく、師が見るものを見よ」とゆーか。あるいは「フラーを愛した」響子と「フラー(みたいな何か)になってしまった」主人公、という対立軸とゆーか。


 ところで。るりあさんがここで言ってるハイスペックってのは、能力云々というよりも、ある種の「クリエイターさんのジレンマ」(自分が作りたいものと、世間の評価が高いor売れるものが違うという悩み)みたいなものだと僕は読んでしまったのですが。さて。
 あ、なんとなく分かってきたぞ。ええと、自転車が好きと評されることに対する主人公の困惑というのは、自転車を設計したり自転車を漕いだりということの背後に視えるアレコレを、「自転車が好き」という言葉、自転車という既存のジャンルによって代表されてしまうことへの違和感という面があって。
(ここら辺、作品内でのSFに関する言及とリンクしてくるわけですが。「お前の言うSFってのは、火星ロケットや銀河帝国や地底探検のことか。スペオペファンはこれだから困る」みたいなアレ)

 けれど。自転車デザイナーとしてご飯を食べていこうと思った場合、ほとんどのひとは自転車という既存のジャンル(言葉)に縛られてしまうし、「縛られる覚悟が無い限り、デザイナーを志すのは止したまえ」と言われたら、そりゃそうかという気がしなくもない。ジャンルそのものの意味合いを変えてしまうひと、「彼は自転車を作ったのではない。彼が作ったものが自転車と呼ばれたのだ」みたいな天才デザイナー(ハイスペック!)も居るのだけど、そんなひとは極少数なわけで。
 だから。るりあさんのアレは「ジャンルに縛られる覚悟が無い腑抜けが何を言ってやがる。きえええ」ということなのかも。

 そういえば、なんか他のひとの感想を読んでしまったよ。
http://d.hatena.ne.jp/yomimaru/20050807#book
 ……うわあ、ユングとか言ってるよ。逃げろー!

 それはさておき。
>卓人にとって、結婚前日、コンペ落選、娘の合格発表といったイベントは、生活環境が大きく変容する時期である。
 いやその。建築/都市計画の分野においては、有名建築家であったとしてもコンペに落選することなんて日常茶飯事だと思いますが。それこそ安藤忠雄連戦連敗」とかを参照。そりゃ落選すれば(毎回)落ち込むでしょうけど、だからといって生活環境が大きく変わったりはしないと思いますが。
 どっちかというとエピローグのあの文章というのは、結婚直前に初恋のあの娘と再会した的な「切なさロマンチック」だと読まれかねないところを、後ろの「コンペ落選」「娘の合格発表」という微妙に生活感溢れるイベントが引き戻してしまってる、としたほうが良い気はしますけども。
(どうでも良いけど、悠有が会いにきたのは結婚式の前日ではなく当日の朝ではなかったかしら)