http://d.hatena.ne.jp/flurry/comment?date=20031213#cの続きです。

「科学的な客観性」をもって議論をしようとしても、

・対象に関するパラメータやモデルが厳密に分かるわけではない。
・そもそも、観察し記述することそれ自体が、観察者と対象とに影響を与える。記述を通して観察者と対象とが相互作用する。

対象が相手なわけです。むしろ宮台氏は、観察者と対象との相互作用を積極的に利用しようとしているように、僕には思えます。オートポイエーシスだかなんだか、おそらくはそういった話で。


 (テオドール・アドルノは)一九六〇年代初頭には、先に触れたポッパーとの間で、社会学における「実証主義」の有効性をめぐって、大きな論争を繰り広げた。科学的な客観性を批判的社会科学にも求めようとしたポッパーに対し、アドルノは、客観性の基礎になる人間の「理性」を徹底的に疑い続けた。ドイツの哲学・思想史では、アドルノは明晰に「理解」されることを拒んでいるかのように、アイロニーと逆説、暗示に満ちた文章を駆使する、もっとも難解な――海外の研究者にとっては翻訳しにくい――思想家として知られている。「普通の人にはとても分からない言葉遣いをする」ことを意味する、<adornieren(アドルノする)>という動詞ができたほどである。
 では、アドルノはなぜ分かりにくく書くのか?
(略)
しかし、より〝深い〟レベルで考えれば、彼の〝分かりにくさ〟は、彼が――本書の「プロローグ」で述べた意味で――「哲学」したことに起因するのではないかと見ることができる。アウシュヴィッツ後を生きるアドルノの「哲学」にとって、「分かりやすい」ことは危険なことだったのである。
 学者・知識人など、「インテリ」と呼ばれる人々には、人前で講義・講演やスピーチなどをする時、「分かりにくい」と言われることを極端に怖れる傾向がある。そうした「分かりにくさ」の中身は実際にはかなり多様である。
(略)
「分かりにくい」ということは、間接的に、「大衆の日常から遊離した観念的なものの見方をしている」ことを意味する。それは同時に、非人間的であり、「血の通った人間らしい考え方」をしていないことでもある。
 そういうレッテルを貼られることを怖れる知識人は、可能な限り、「一般大衆」にウケるようなことを言ったり、それらしいパフォーマンスをやってみせて、「分かりにくい」という非難が出てくるのを回避するようになる。今の日本だと、さしずめ渋谷に行って、ルーズソックスを履いている援交でもやってそうな女の子と「話」をして来て、「若者の生きた言葉」が分かった、というたぐいの振る舞い方である。

(略)

 当然のことながら、「現実」コンプレックスの知識人は、「現実」に対して適切な距離を取ることができない。「一般の人」(=国民の大多数)が言っていることに迎合するか、耳をふさいで観念の世界に閉じこもるかのどちらかしかない。アドルノは、自分も含めてドイツの知識人の多くが、ナチス時代にその両極端に引き裂かれ、時代の〝趨勢〟に翻弄される〝現実〟を目の当たりにした。長い間外の世界の喧噪を避けて象牙の塔に引きこもっていながら、急に外に出て行って、「民衆=民族Volk」の言葉で語り出した者もいたし、その逆もいた。「一般大衆」なるものはどこに向かうか分からない。その時々の雰囲気で、ナチス的な言葉が分かりやすかったり、マルクスレーニン主義的な言葉が分かりやすかったりする。「一般大衆」に対する「分かりやすさ」というのは、全然信用ができない。

 そこでアドルノは、徹底的に「哲学」的になる、という戦略を採った、と筆者は考える。〝一般の人〟にとって、「分かりやすい」と一見思われていることが、実は「分かりにくい」ことを、ひねくれた文体を駆使することで示そうとしたのである。一見「分かりやすそう」に見えて、読み進めていくとだんだん「分かりにくく」なり、そう思っていたら今度はまた一見して「分かりやすそうな」オチが出てきて……と、何重にも「ひねり」を加えることで、(大衆的な)「現実」に迎合するのでもなく、またそれから目を背けるのでもない両義的な態度を確信犯的に取り続けたのである。
 アドルノの「ひねり」は、自分自身の「人間的理性」さえも信用できなくなった状況で、哲学者に残されたミニマルな道徳の試みとして理解すべきであろう。
仲正昌樹『「不自由論」――「何でも自己決定」の限界』ちくま新書 p.30-33)

 自分でも意図が分からない引用を大量にしてしまった。
 …つまるところ、アドルノは、分かりやすさと分かりにくさを文中でミックスさせることによって、過剰な(全体的な)分かりやすさに回収されてしまうことに戦略的に?対抗しようとしていたようです。
 ただ、この手法は読者に「分かりにくいけど、読みたい」と思わせないと話にならない。読み飛ばされて分かりやすい部分だけを拾われてしまう可能性や、そもそも読んでもらえない可能性があるわけですから。

 他方、宮台氏は「条件分岐・場合分け付きの(局所的な)分かりやすさ」を志向しているように僕には見えます。この場合、前提となる場合分けを受け入れることができれば、メッセージは過剰なまでに分かりやすくなります。けれど、場合分けを受け入れようとすると、そこに待っているのは、次なる「場合分け」です。そして、以下繰り返し。
 ここにも確かに「分かりにくさ」は存在していますが、アドルノが採用した分かりにくさとは性質が異なるように思えます。…アドルノの文章を読んだことはないので分からないのですけど。アドルノを読んだことがないのだったら、そもそもこのようなことを書くべきではないだろう。当たり前のことだが、これを書いたときの僕にとっては当たり前ではなかったらしい。

 「条件分岐・場合分け付きの分かりやすさ」というのは、世界を有限個の「場合分け」で分割し切ってしまうことではないはずです。
 かといって、「場合分け」は無限個なのだけど、先に進むに連れて、分岐がどんどん瑣末で重箱の隅を突付くようなものになってしまい、ついには収束してしまうような場合を考えているわけでもない。
 場合分けを選び条件分岐をたどること、そのことによって世界それ自体が駆動される。宮台氏が考えているのは、多分そういうことなのではないかと。


 僕が気になっているのは多分、宮台氏の手法というのが、様々な連続的(アナログ)な場合を捨象して0か1か(デジタル)にしてしまわないと機能しないのではないか、という点で。
 宮台氏による「予期とは何か?」を読む限りでは、人間の社会認識というのはそもそもが捨象されたデジタルなもので、そのデジタル化の過程というのが「予期的構造化」だ、ということのようなのですが。

 …ところで、「0か1か」って書いてるときに思ったんだけど、これって弁証法とかいう話なの?