とりあえず僕が気になったのは次のこと。「ところで家族という問題意識は一体どこへ行ったの?」 サブタイトルにも家族療法って書いてあるのに、浅野氏は本文中では家族というフレームを用いようとはしない。自分と他者、あるいはセラピストとクライアントという単位に分割してしまう。でもそれなら家族療法を切り口にしなくてもいいじゃん。

 セラピー、心理療法のことは全然知らない状態で書くのだけれど、そもそもクライアントが自分について意識的に語り始めた時点で、セラピーとしては半分成功なのではないのだろうか。まず、その段階にクライアントを持っていく過程というのがセラピストとしては一苦労だと思うのだけど。もちろん最初にして最大の難関は、クライアントにセラピーに来てもらうこと。

 そして、個人ではなく家族を単位としてセラピーを行おうとする試みというのは、「自分以外のことばかり語りたがる人たち」へのセラピーはいかにして可能になるかということではないのだろうか。
「私が苦労しているのは、すべて母のせいなのです。なぜカウンセラーたちは、執拗に私のことばかり尋ねるのですか? 悪いのは母で、彼女を変えないとどうにもならないことは分かりきっているじゃないですか。本当は私はセラピーを受ける必要なんて無いんですよ。なぜ母をセラピーしないのですか。母は○○という人生を…」
 例えばこのクライアントは自分について語っているのだろうか。どうだろう。家族というのは、他人でありながら他人以上の、自分のルーツやらなんやら(←物語!)を引き持った人たちでもあるのであって、家族を丸ごとセラピーの対象として扱うことでこのパラドックスに対処しようとするのが家族療法ではなかったか。

それと平行して、イーロンが注意を向けたのが彼女の母親の話だ。実は母親もヘレンと同じような症状に悩まされていたのだが、ヘレンはこの母親を「つねに他人の世話をしている人」、「自分自身の人生を犠牲にし続けた人」として語った。その語りの中でヘレンは、彼女の他人に対する責任感が彼女の人生を母親の人生とそっくりにしていることに気付く。
この気づきを転機として、二人の会話は新しい方向へ向かいはじめた。
(本文157ページ)
「母の人生」を語ることによってヘレンの気づきは起こったのだけど、これを浅野氏は「ヘレンの自己物語」として、「『母のような人生』によって体現されるヘレンの人生、という物語」として一足飛びに纏めてしまう。でもそれって、どうなんだろう。
 浅野氏は「セラピーを受けている人たちが、自分自身について語る」というある意味特殊な状況を前提として局地戦をやっているのだけど、僕としては「じゃあ、自分以外について語っているときの自分ってどうなんですか?」と訊きたくなるのだ。