脳内ワセダ、見下ろす、残酷さ。

http://d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/20080312#p2
街は見下ろすものじゃない
地べたから眺めるもんだぜ。一年居候した高田馬場とかは、エキゾチックで、胡散臭い人が胡散臭いまま生きていてもよさそうで、とても好きな街だけど。

僕の数少ない経験から得られた脳内高田馬場というのは、街を見下ろすひとが随分と多そうな街なのですが。というのはともかく、「エキゾチックで、胡散臭い人が胡散臭いまま生きる」ことと、その胡散臭く見える人やその人の周辺の人が街を見下ろす視線を持っていることは何の矛盾も無く両立し得るように思います。
たとえば、西原理恵子の作風の二面性について考えると分かりやすいかも知れません。



まあ、もちろん「見下ろす」の定義によるんですが。僕がここで想定してるのは、たとえば「おいどんはただ生きているだけよ−平民新聞」辺りの方向性です。

ただ、ぼくにはどうしても、他者に対して持ちたくない視点、というかある方向への視線、があって、それがどういった視線なのかというと、それはなかなかひとことで言えないし、きっと言葉にして発する事はないと思う。やさしくありたい、とかそういう風に思ったことは一度もないけれど、自分の持っている残酷さには徹頭徹尾自覚的でありたい。

なんていうか、頭悪い人ですよね。いいから他人にやさしくなれよ。残酷なことするなよ。でも、こういう人って、すべてを捨ててもその視線だけは持ち続けようとするからなあ。そして、その頭の悪さと心中するの。


というわけでというか、何というか、残酷さというものを巡って考えるために大川正彦「正義」とか読んでます。リチャード・ローティ「偶然性・アイロニー・連帯」の後半部分に関心のあるかたには重要かもしれません。

ついでに石橋さんのこと。

http://d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/20080311#p1
> 何となれば、国家も、宗教も、哲学も、文芸も、その他一切の人間の活動も、皆ただ人が人として生きるためにのみ存在するものである
文芸やアート以外に対してであれば俺も特に文句を言わずに受け入れて前提に出来るけど、文芸を含む創作全般に関しては、受け入れられない。
文芸を含む創作全般を、とりあえずアートと呼ぶことにする(俺は一貫してそう考えているが、そこの議論は別として)。
アートは、人が人として生きるために存在するわけではない。そもそもアートは、他の目的のための手段ではなく、それ自体が目的であり、アートの内輪の基準として言うなら、どのようなものであれ目的を押し付けられる筋合いなどない。

とてもリベラルな人だとは思うけど、彼はやっぱり政治家なのであって、ここでは政治家の望むアートの鋳型が提示されていて、あるべき自由なアートよりも、彼のアート像は窮屈で狭い。

石橋湛山については全然知らないのですが、「ただ人が人として生きる」という文章を読んで、いきなり「ここには『人とは何か』という確固とした概念が最初からある」と思ってしまうのはダメなんじゃないでしょうか。
とりあえず昔の文章を発掘しておきます。

この辺を真面目に考え始めると、何でも「可謬性としてのリベラリズム」とかがやってきて大惨事らしいです。助けて!大川先生!