http://www2.diary.ne.jp/user/160667/ (12月2日)のとこ。
"life-world"というのは「生活世界」という術語っぽい。あと営業妨害というか、続きが読みたくなったので、適当に訳してみた。ちなみに元の文章は、
"Passion In The Era of Decaffeinated Belief"(http://www.lacan.com/passion.htm)の"And, perhaps, the prohibition to embrace a belief with a full passion explains why, today, "culture" is emerging as the central life-world category."から始まる部分。

 んで、以下は訳文。

 そして、ことによると、完全な熱情でもって信仰を受け入れることに対する禁止という事態は、なぜ今日において「文化」が生活世界(life-world)の中心的なカテゴリーとなっているかについて説明してくれるかもしれない。宗教は許されるか?――人生における実質的なありかたとしてでなく、一種の「文化」として、もっと言うならば、生活様式(ライフスタイル)的な現象としてならば。宗教を正当化するのは、そこに内在する真理証言(truth-claim)ではなく、宗教が我々の中の一番奥にある感情や態度を外へと表現させてくれる、そのやり方なのである。もはや我々は「本当には信じていない」 我々は自らが属しているコミュニティの生活様式に対する配慮の一部として、宗教的な儀式(のうちの幾つか)やその他諸々に従っているだけである(よく知られているところの、非信仰的でありながら「伝統への配慮」のためにコーシャーの戒律に従うユダヤ人について思い出してみよう)
「私はそれを本当には信じてはいない。それは私の文化の一部なのである」というのは実際には、我々の時代に特徴的な「否認された/置換された」信仰における支配的な様式であるように見える。我々はサンタクロースを信じていないけれども、12月になるとクリスマス・ツリーはすべての家々に、さらには公共空間にも置かれる。ことによると「文化」というのは、我々が実際には信じていないにも関わらず実践しているような、全てのものに対して与えられる名前なのではなかろうか。これはまた、文化の概念の中に科学が含まれないことの理由でもあるのではないだろうか? 科学というのは文化に含まれるには、あまりにもリアルにすぎるのではないだろうか? そしてまた、我々が原理主義的な宗教信仰者のことを、「野蛮人」であり、反文化的であり、文化に対する脅威であるとして退ける理由ではないのだろうか? 原理主義的な宗教信仰者たちは、わざわざ自らの信仰をまじめに受け取っているのではないだろうか?
 今日、我々は結局のところ、直接的に文化を生きる人々――つまり自らの所属する文化に対して距離を取らない人々のことを、文化に対する脅威として受け取っている。3年前にアフガニスタンタリバンの軍隊が、バーミヤンにおいて古代の仏像をダイナマイトで爆破したときに巻き起こった憤慨について思い出してみよう。我々(啓蒙的な西洋人だ)の誰も仏陀の神性を信じてはいなかったが、タリバンイスラム教徒が彼ら自身の国および全人類の「文化遺産」に対して適切な敬意を示さなかったために、我々はとても憤慨したのである。彼らは文化的な人々のように他者を通して信仰を行うのではなく、本当に彼ら自身の宗教を信じているために、他の宗教の記念碑の文化的価値に対して大きな感受性を持っていなかったのではないだろうか? 彼らにとって仏像は、まさしく偽りの偶像であって「文化的な宝物」でなかったのである。(ついでに言えば、この憤激というのは、今日における啓蒙化された反ユダヤ主義者のそれと同じではなかろうか? 彼はキリストの神性を信じてはいないが、にも関わらず我々の主イエスを殺したということでユダヤ人を責めるのである。あるいはまた、エホバや預言者モーゼを信じていないにも関わらず、ユダヤ人がイスラエルの土地に対して神聖な権利があると考えている、典型的な世俗的ユダヤ人に関してはどうか?)