「なぜ〜してはいけないのか?」

http://d.hatena.ne.jp/ityou/20060618
http://d.hatena.ne.jp/crow_henmi/20060620#1150807829

そもそもの「なぜ〜してはいけないのか?」という問いかけが主体構成的な作用を持っているのがアレなわけですがー。

http://flurry.hp.infoseek.co.jp/200402.html#20_1

 ボーデンハイマーはこの点を、父親にたいする子どもの質問を例に挙げて説明している。「お父さん、空はなぜ青いの?」 子どもは本当は空そのものには興味がない。この問いの真の狙いは、父親の不能、つまり空が青いという動かせぬ事実を前にしたときの無力さ、その事実を実証できず、その証明に必要な一連の論証を提示できない無能さを暴露することである。したがって空が青いということは、父親の問題になるだけでなく、父親の落ち度にもなる。「空は青い。なのにあんたはそれについて何ひとつできず、馬鹿みたいにぼんやり眺めているだけだ」。問いは、たとえある特定の事物の状態に言及しているだけであっても、つねに主体に形式的に責任を負わせる。ただし否定的な形で。つまりこの事実を前にしたときの無力さの責任を負わせるのである。
スラヴォイ・ジジェクイデオロギーの崇高な対象」 p.272-273)

http://flurry.hp.infoseek.co.jp/200402.html#26_2

 では、この主体化以前の主体の地位は何か。ラカン派の答えは、大雑把に言えば、同一化としての主体化以前、イデオロギー的質問以前、主体の立場を引き受ける以前の主体は、問いの主体である。表面的には、われわれはふたたび伝統的・哲学的問題群の真ん中にいるように見える。事物の与えられた客観的状態すべてを問題視することができ、積極性の中に問いの開放性を導入する、否定性の力としての主体。要するに、主体は問いなのだ、と。だがラカン派の立場は正反対である。主体は問いではない。主体とは、大文字の<他者>――象徴的秩序――が発した問いに対する、<現実界>からの応答である(Miller,1987)。問いを発しているのは主体ではない。主体は、<他者>の問いに答えられないという不可能性の空無である。
スラヴォイ・ジジェクイデオロギーの崇高な対象」 p. 271)