最初は「犬でもいいけど気まぐれな猫の方がベターだよ」とか書いていたkowagariのひとが、途中から、

あとこの話と全然関係ないけど、猫を支配したり服従させたりできないことは、自分の手で猫を飼った人なら全員知っている。ただただ一緒に暮らすことしかできない。
とか言い出してしまうのが、どうにも可笑しい。犬だったらどうなるのよ。犬だったら。いつのまにか猫を飼うことがベターではなくマストになってしまっている風味。
 え? 本人が「これは、上の話と全然関係ない」って言ってるだろって? あはは、関係無いわけないじゃん。

 もちろん「決してこちらが望むようには動いてくれない猫」というテンプレート的なイメージは、過去にさんざん「猫⇒女性」と置き換えられて流通してきたわけでさ。

 jounoさんの文章(http://d.hatena.ne.jp/jouno/20050910/1126349205)に関して。
 引きこもりだの非モテだのといった問題系は、その最初から「外面的なもの/内面的なもの、の二重化」みたいなヤヤコシサと共にやってきたのは当たり前なことで。たとえば、引きこもりへの攻撃が「生活態度がキモい/自意識という砦に立てこもるような心的態度がキモい」という二段構えで行われていることを考えるとよい。「内面の態度/社会スキル」を分離するかに見えるjounoさんの態度は僕には分からない。

恋愛の前提にあるのは、他者を自己の弱みとすること、弱くなること、小さくなること、愚かになること、という「安定した自己完結の暴力的喪失」という側面のほうなんじゃないか。そして、それは猫を飼うことで十分、達成されると思う。そういう意味ではかわいい猫はこのうえなく暴力的だ。
 はいはーい。「自己完結的なものが暴力的に喪失されてしまう状況」を言祝ぐ(かのように見える)物言いは何であれ疑ってかかれ、という教えで育った僕としては、大いに眉に唾せねばならないわけですがー。
 本来の趣旨で言うなら「猫を飼う」のは、愛とは何かを体得する過程として位置付けられてるはずで。たとえば誰かが、猫の可愛さによって自己完結性を失うという経験をしたとする。彼がそこから得たものを(その猫相手だけでなく)他の存在にも活用することが出来ることが前提されているとしたら、それはどういうことなのか。
 それは、その誰かが「自己完結性の暴力的喪失」を安定して行うことができるということではないのか。一体どういう状況だよ。