Slavoj Zizek ”You May!”(その11)

(A similar tension between rights and prohibitions determines heterosexual seduction ……)
 これと同様の、権利と禁止のあいだの緊張が、我々の「政治的に適切な」時代における異性愛的な誘惑を規定している。違った言い方をするなら、いかなる意味でもセクハラや性的侵犯でないような誘惑というのは存在しないのではないだろうか? なぜなら性的誘惑のプロセスのどこかには必ず、自分自身を相手に晒し、相手にモーションをかけなければならない点が存在するからだ。
 もちろん誘惑がいつでも不適切なセクハラだというわけではない。あなたが女性にモーションをかけるとき、あなたは自分自身を他者(つまりは潜在的な恋人だ)に対して露出させる。*1そして、そのときの彼女の反応こそが、あなたがやった行為がセクハラであるのか、それとも適切な誘惑であるのかを決定するのだ。前もって彼女の反応が何であるかを知る方法は無い(これこそが、我の強い女性がしばしば、必要だが危険な橋を渡ることを怖れる『弱い』男性を軽蔑する理由である)。
 この関係は我々の「政治的に適切な」時代において、より強固に成立している。「政治的に適切な」基準によって禁止されている行為とは、ある意味では誘惑のプロセスで行われるような行為なのだ。誘惑者は狡猾にも、禁止されている行為を成し遂げた上で相手に受け入れさせることで、自らの行為に含まれる嫌がらせ的な要素を消し去っているのではないだろうか?

*1:"expose oneself"、つまり「自分の性器を相手に露出する」