>今木さん
 あ、どもです。文脈を離れて言うと、内田樹氏の場合「分からないがゆえに、逆に魅せられる」ということについて、氏自身が考えている部分が大きいのですが、おそらくアドルノにはその要素は少ない(何しろ、アドルノを読んでないので分からないのですが)←上と同じ。
 先の引用では省いたのですが、

表層的に理解すれば、もともとエリート気質でプライドの高かったアドルノが、第二次大戦を経験して、すっかり人間嫌いになり、大衆に理解してもらえそうな平易な文章は書かなくなった、ということになるだろう。そういう言い方をするアドルノ専門家は意外と多いし、筆者もそのような個人的・〝人間的〟な要因があったことは、否定できないと思う。
仲正昌樹『「不自由論」――「何でも自己決定」の限界』ちくま新書 p.30)
 この部分から勝手に想像するに、アドルノの文章を読む「動機付け」(←宮台っぽいなあ)というのは、「分からなさ」それ自体の魅力による動機付け(そういう人も、それなりには居るとは思いますが)の影響力というよりも、教養主義だか「真実の言葉を求める願望」だかに支えられている側面というのが大きい。
 で、教養主義が既に消え去ってしまったかに見える現在、「これくらいは教養の範疇だ。読め!」「分かりにくいだろうが、ここには真理がある」というやりかたでメッセージを他人に読ませることは至難だ、という話なわけです。


 内田樹氏の12月4日の文章に関して言うと、むしろ宮台氏の論に親和性が高いような気が僕はしています。

人間が一人だけしかない状況で「人間とは何か?」ということを定義するのはたいへんむずかしい。
でも二人いると、その二人の解剖学上の組成の差とか、考え方の違いとか、情動的反応の違いとかを捨象して、「共通する要素」を抽出できる。
サンプルが100人いれば、「共通する要素」はもっと減るし、100万人いれば、もっと減る。
つまり、データが増えれば増えるほど、「これは何か?」を言い当てるための言葉は短くなるのである。
という辺りとか。
 あと内田樹氏は「機能の言葉」の熟練した遣い手だったりする辺りが、何となく。