http://d.hatena.ne.jp/sayume/20040828

返事書いたよー。今更って感じは少しあるけど。
いやウェブって、気長に言葉のやりとりを出来るのが良いところなのではないかしらん。

>デジタルってのは何らかの型に嵌めて「補完」する形式ですから。とはいえ、最初から言ってるように大した差はないのだけど。

>まさか、「一つの言葉」<「文章」とか考えてるわけではないでしょう? 文章を一つの言葉で置き換えるのと、一つの言葉を文章で置き換えるのはそんなに変わりないことで、

 みつき先生が「大した差がない」と言うとき、それは何かを比較していると思うのだけど、いったい何と何とをどんな基準で比較しているのか僕にはちょっと良く分からない。
 そもそも何かと何かを比較するためには、たぶん両者を同じテーブルの上に並べてみる必要がある。でもたとえば「過去の自分」「現在の自分」「未来の自分」を比較しようとするひとが居たとしたら(←考えてみれば結構無茶です)、それは一体どのように同じテーブルに載せられるのか、そして両者を上空から見下ろす視点はどこに存在するのか。それが僕が気にしていて考えていることだったりします。
 みつき先生が「何かで代表するということは、任意の評価系に型ハメすることです。それはデジタルと同じこと。なんていうと、デジタルとは限らないとか言われそうだけど、そもそもがデジタルとアナログは大した差がないって話なので問題なし」というとき、僕には「何かの信号をデジタルフィルタとアナログフィルタに入力して、それぞれのフィルタから出力結果が帰ってくるという手順全体を、みつき先生が上から見下ろしている」みたいに見えてしまうんですね。んで、その「手順全体を上から見下ろす視点」の所在というのが僕には良く分からない。
 同様に「<」という不等号や「そんなに変わりない」というのも、よく分からなかったりします。

普通に「冗長性を持たせることで誤解を防ぐ」みたいな話なら別に否定はしませんけども。
 何だかこの言葉に僕とみつき先生との言葉のズレを感じるわけで。この話って、たとえば「明快なメッセージを誰かに伝える」ことを問題にしていたんでしょうか。
 これはそれこそ転叫院くんが詳しい範疇の話なのだけど、僕らは考えるのと伝えるのに同じ「言葉」というものを使っているのがややこしいところで(もちろん、言葉以外で考えている可能性というのがあって、それがまたややこしい)。ここで「えー、自分の中で考えるときに使う言葉と、他人に伝えるときの言葉とは、明確に使い分けてますよー」という人が居るかもしれない。でも、僕らが考えているとき、それは本当は脳内の誰かに語りかけているということもあるんではなかろうか。たとえば「自分専用の言語は存在しない」という言葉はそのように読まれるべきなのだろうと思う。

 同じ言葉でそういうことも表現できてしまうけれど、そうじゃなくて、「型打ちされたくない」という型にはまるという方が近いかも。ポテンシャルを上げないと結局型にとらわれてしまうのさ。
 ちょっと主語とかが色々分かりません。ここでみつき先生は「型」というものがどこかに物理的に実在しているような書き方をしてる。それこそ「誰も居ないところで樹木が倒れるときの、その音」の話ではないですけれど。

喩えというわけでもないんですが。「言葉の意味なんてほっておけば拡散する」っていってるだけです。
いやその「いってる『だけ』」なのだったら、はじめから分かりやすく書いても良いのでは。ところでマジックワードというのは拡散というよりも、むしろ特定のタームを巡る凝結と構造化なのではないでしょーか。

一歩ってどっちに踏み込むんでしょう? 比較的同業なせいもありますが、一歩踏み込まれたらつまらない場合も十分に多いと思いました。だって、妄想をつっぱしらせるには「リンク」だけで十分なんだから。
 いやそれが説明できたら自分でネタ書いてます。上手く説明できないけど、なんだか妙な閉塞感を感じてしまうんですね。ひょっとすると彼のネタというのは「一歩踏み込んだらつまらない」ことを共有すべき暗黙の了解として置いていて、その上で成り立っているんではないかという気もするのです。ところで同業というなら、僕だって元は同業です。

マシュウおにいちゃんにいわせたら「そもそも個人的な感情の話しかしてねぇよ」とかいわれるのかもしれないけど。
 や、それは違います。というか、個人的感情とそれ以上の何かとの位相関係こそが、まさしく僕の話したいことなので。そして両者の位相関係は、単純な境界線ではなくて相互言及を含んだややこしいものなわけです。変な例を出すなら、たとえば「僕の中には、世界全てを客観的に見通す冷徹な視線がある。でも、このことは僕だけの秘密だ」みたいな。本家のほうで書いた「絵を描く少年」ではないですけど。
 「物語」の話をするならば、物語メディアというのは「個人的な○○」というのを広くばらまいて回るという不思議なもので。たとえば誰かが作品の出来不出来について評論だの批評だの罵倒だのすると、作品のファンからは「あなたは私の個人的な感情にケチをつけるのか!」という声が寄せられたりもするわけです。

 別に物語を浮上させる必要は特にないと思いますけどそうですね。「異化」ってのは「文脈」を意識する時点で「他」との「つながり」を前提としているので、「リンク」で一般化しちゃった方が「より正しい」気がします。
 なにが書いてあるのか、じぇんじぇん分かりません。「ディスカバー・ジャパン」ではないですけど、そもそも「再発見」という言葉を使ってしまった時点で文脈が意識されてしまうんではないかしら。