手段/目的としてのカンフー(「カンフーハッスル」「少林サッカー」のネタバレ含む)

 もちろん手段/目的は、そう簡単には区別できないということを念頭に置いた上で。

 僕は「カンフーハッスル」に関して、少しばかりネタバレされた状態で観に行ったのでした。具体的に言うと「エピローグで主人公が菓子屋をやっている」という部分。んで、ストーリー途中でアイスクリーム屋台で働いているヒロインを見たとき、僕は少しばかり危惧を覚えたのでした。「ひょっとして最後は、独りで屋台を押しているヒロインの後ろから、そっと主人公がやって来て一緒に屋台を押し始める。貧しいけれど、それなりに楽しい暮らし」とか、そういうものではないのだろうか?
 もちろん、この危惧は素晴らしい形で裏切られました。主人公が始めた飴屋は大繁盛しています。そう、今度は「キャンディーストア・ハッスル」なのです。かつてヒロインが主人公に渡せなかった飴は、いまや量産されて子供たちに渡されています。その飴を受け取った子供たちは、ドクター・ハッスルであれローヤー・ハッスルであれ、みんな主人公のようにハッスルするようになっていくでしょう。そう、大事なのはハッスルすることなのです。

 チャウ・シンチーの前作「少林サッカー」では、主人公の目的はあくまで少林拳の復興であって、サッカーはそのための手段に過ぎませんでした。そしてエピローグ、人々が少林拳の心技体を学ぶことによって世界の姿は大きく変貌し、そして主人公たちは軽やかに次の目標(少林ボウリング!)へと向かっていきます。この点において僕は「カンフー・ハッスル」と「少林サッカー」とに同じものを見ます。

 僕がこの文章を書いた理由というのは、たぶん「指輪世界の第二日記」の伊藤さんの文章(http://d.hatena.ne.jp/ityou/20050118)を読んだからでしょう。


 少林サッカーのオチは、皆カンフーを使うようになった街の人々というもので、皆がヒーローと同じ道に進むという逆の話になっているんですけどね。いったいどういうことなんでしょう。不思議なものです。
 上で書いているように、僕は両者の間に同じものを見るのです。

 余談ですが、伊藤さんが引用している「私信」ですが、あの文章には、

  • 「ヒーローにはなれない僕たちだけど、僕たちなりに(身の丈に合った)努力をすることで……」
  • 「結末でカンフーそのものを自己否定することによって、視聴者にフィクションから現実に戻るようにというメッセージを……」

とか、そんな感じのアタマの悪いお説教を呼び込みかねないような隙があって、そこが僕にはいささか気になるのです。