「事後的に見る」ということ(電波風味)


http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20050205#p2
 もし仮にここで「ある規則」の正体を十分に看破可能であり、かつその規則に基づいて人々のハビトゥスを、あるいは当の規則自体さえも操作することは可能であるしまたそれが望ましい、と考えるならば、これはかつてのロシア・マルクス主義未来派的な人間改造思想や、あるいは積極的優生学と同じ轍を踏むことになるだろう。

 僕の直観ではこの「規則」、道徳の産出条件それ自体は、生物進化のプロセスとか、産業の発展のそれと同じく、事後的にのみ理解可能であり、かつ大域的には操作不可能なものと思われる。(厳密な論証は略するが、社会主義計画経済の教訓はかなりの程度有効なアナロジーを提出してくれるだろう。)

 しかし、事後的に見ることは、いったいどのようにして可能になるのだろう。何かを事後的に見るには、まず、その何かは既に終わってしまったものでなくてはならないし、終わったものだと認識されねばならない。さらに言うならそれは「既に終わってしまったものだ」と宣言されねばならないかもしれない。でも誰が、どうやって?
 そして僕らはしばしば、自分や他人の現在・未来に対しても平然と「終わった」と宣言し、そして事後的な視線を向けることがあるのではなかろうか。


 われわれは分裂親和的な時間をプロレタリアートの革命意識との類比から「前夜祭(アンテ・フェストゥム)的」と呼んでおいたが、鬱病親和的な時間については、ルカーチが資本主義の「現在が過去によって支配される」意識を形容して用いた「ポスト・フェストゥム」の規定をそのまま借用することができるだろう(城塚登他訳『歴史と階級意識』、ルカーチ著作集9、白水社、四〇八頁――邦訳では、「事後的」となっている。)

木村敏「時間と自己」(中公新書)p.108