10年以上前にイスラエルの新聞Ha’aretz紙が、当時の労働党党首エフド・バラク(Ehud Barak)に、もし彼がパレスチナ人として生まれていたとしたら彼は何をしたであろうかと訊ねた。バラクはこう答えた。「テロリスト組織に参加したでしょうね」
 この言明はテロリズムを承認するものではまったくなく、パレスチナ人との真の対話を行うための空間を開くための唯一のものだったのだ。
 同様のことが、ソビエト書記長ミハイル・ゴルバチョフが、グラスノスチ(情報公開)とペレストロイカ(改革)のスローガンを掲げたときに起こった。ゴルバチョフがその単語によって「本当に意図していた」ことは問題ではなかった。まさにそれらの単語自体が、世界を変える雪崩を解き放ったのだ。
 あるいは今日において、拷問に反対するひとでさえも、拷問のことを公的に議論する価値がある話題だとみなすことを受け入れることで――第二次大戦後のニュールンベルグ裁判や、さらにはジュネーブ条約にまで遡ってしまう、途方もない後退だ――、拷問を正当化してしまっているのだ。
 言葉とは決して「単なる単語」ではない。言葉とは「私たちが何をすることができるか」についての輪郭(outline)を定めるときに問題となる、重要なモノ*1なのだ。

*1:原文は"They matter because they define the outlines of what we can do." ここでのmatterは、ジュディス・バトラーの本の題名"Bodies that Matter"のように「問題となる、重要である」と「物質」とのダブルミーニングでしょうか。