我々はサンタクロースの慣習を通して、これと同様のことを我々の子供たちに対して行う。
 子供たちはサンタクロースのことを信じている(と考えられている)。我々は子供たちを失望させたくない。そして、子供たちは彼らの純真さに対する我々の信頼を傷つけることで我々を失望させないために(そして、もちろんプレゼントを貰うために)サンタクロースを信じるふりをするのだ。

 また、「私のことを信じてくれている普通の人々を失望させることは出来ない」というのは、不正を働いていると疑われる政治家が誠実なふりをしようとする際の、いつもの言い訳ではないだろうか?*1

 さらに言えば、この『本当に信じている』誰かを見つける必要性というのはまた、他人に「原理主義者」(宗教であれ民族であれ)という汚名を着せようと我々を駆り立てるものでもある。薄気味悪いことだが、ある種の信念は常に「距離を置いて」機能しているようなのだ。
 信念が機能するためには最終的な保証人が居なければならない。そしてその保証人は常に延期され、置換され、直接には("in persona")決して現れない。もちろんポイントは、信念が機能する上ではこの「直接信じている他者」は現実に存在する必要はなく、その他者の存在を前もって仮定する(presuppose)だけで十分だということだ。言い換えると、何かを信じるためにはその口実として、未開人としての「他者」や非人格的な「誰か」(「それを信じている誰か……」)が必要なのだ。

*1:原文は"Isn’t this also the usual excuse of the mythical crooked politician who turns honest?"