Slavoj Zizek ”You May!”(その16)

(This reflexivity undermines the notion of the Post-Modern subject free to choose and reshape his identity. ……)
 この再帰性は、「ポストモダン的主体は自分自身のアイデンティティを選んで再構築することができる」という考えを侵食する。抑圧と抑圧されるものとを短絡(ショート)させるのが「超自我」という精神分析的な概念である。
 ラカンが何度も繰り返し強調するように、超自我が発する命令の本質的な内容は『楽しめ!』である。父親が日曜の遠足を準備するために苦労した挙句に、遠足が何度も延期されてしまったとする。最終的に遠足が開催されたときには、彼はすっかり飽き飽きしていて子供たちに怒鳴る。『さあ、今度は君たちが楽しむべきだ!』
 超自我は象徴的な法とは異なったやりかたで機能する。象徴的権威のモードにおいて単に『抑圧的』であるような父権的人物は、子供にこのように言う。「たとえお前が死ぬほど退屈だとしても、お前はお祖母ちゃんの誕生パーティーに行って上手にふるまわなければならない。お前がそれをしたいかどうかは私には関係ない。いいから行きなさい!」
 対照的に超自我は、子供にこのように言う。「どれほどお祖母ちゃんがお前に会いたいかについてお前は分かっていると思うけど、でも、お前が本当に行きたいと望んでいるのでなければ、お祖母ちゃんのパーティーに行ってはいけない。――本心から行きたいのでなければ、お前は家に残っているべきだ」
 超自我によって実行されるトリックというのは、あたかも、子供に自由選択を提供しているかのように見えるところにある。もちろん全ての子供が知っているように、彼に選択の自由は存在しない。それだけでなく状況はさらに深刻である。彼は命令を与えられていると同時に、微笑むようにも求められている。「お前がどのように考えていたとしても、お前はお祖母ちゃんを訪ねなければならない」というだけでなく、『お前はお祖母ちゃんを訪ねなければならない。そして、そうすることに喜びを感じなければならない!』ということなのである。超自我は、あなたが自らの義務を果たすことによって楽しみを得るようにと、あなたに命令するのである。
 仮に子供が、自分に本当に選択権があると考えて「じゃあ、お祖母ちゃんのところには行かないよ」と答えたとしたら、いったい何が起こるだろうか? 親は彼を震え上がらせるだろう。「お前はなんてことを言うんだ!」 彼の母親は言うだろう。「なんてひどい子なんでしょう! お前がお祖母ちゃんに会いたくなくなるようなどんなことを、可哀想なお祖母ちゃんがやったっていうの?」