ぐんにょりするメモ。ぐんにょりするところから持ってきた。


http://www.miyadai.com/index.php?itemid=129
■ルソーの一般意志概念や、その具体例になる憲法意思概念を持ち出すまでもなく、近代社会は一定の虚構がなければ回らない。国家など虚構だ、憲法意思は虚構だと叫んで満足する輩は、虚構を前提にして回転するシステムにタダノリするフリーライダーに過ぎない。
■この虚構には、様々な人為的な境界線が含まれる。我々とは誰のことなのか、人間とはどの範囲なのか、云々。しかも、この境界線は、根拠付けを欠いた単なる事実性に過ぎない。史的に遡れば必ず境界設定の正統性(自発的服従契機)が相対化されてしまう。
■結局〈社会〉を生きることは直ちに何がしかの虚構にコミットすることを意味する。むろん虚構は相対化できる。だが〈社会〉を生きる以上、虚構と無関連には生きられない。せいぜい必要な虚構と不要な虚構を見極め、必要な虚構にコミットするぐらいしかない。

 ところで、この文章の最後に「映画を借りて社会学の可能性を虚数的に延長する」などと書いてあって、虚数的って一体どういう意味だよと思ったんだけど、"Imaginary"にってこと?