虎バター

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 それは言い換えれば、「他人のふりをして語る」ことの方が「語る」という行為の本質にはかなっている、ということを意味している。「語る」と「騙る」は同音異義ではなく、たぶん同音同義なのである。
 というところで安心してしまうのがシロートの浅知恵で、「他人の声を借りて、定型的な語法をもって語る」といくらでも語れるので、95%くらいの人は、それが「語る」ということだと思い込んでしまう。そして、それが「他人の声を借りて、定型的な語法をもって語っている」という当の事実を忘れてしまう。それが自分の「地声」だと信じ込んでしまうのである。なにしろすらすら、いくらでもあふれるように出てくるんだから。どうしてそれが「自分の声でない」ということがありえようか。
 だが、真に内省的な人間はここで「あまりに調子よくすらすら出てくる言葉」の起源が自分の「内部」にはないことに気づく。それはどこか「よそ」にリンクしている「回路」から流れ込んでくるのである。だって、こんなに調子よくしゃべれるはずないから、オレは。
 そこで、ラッキョの皮を剥くような内省が始まる。「『だって、こんなに調子よくしゃべれるはずがないから、オレは』というこの自己省察の言葉を語っているのは権利的には『誰』なんだ?」という問いが当然わいてくる。と当然にも「で、この問いを発しているのは権利的には『誰』なんだ?」ということになり。もちろん、この問いも(以下同文)
 誤解のないように付言するが、「ラッキョの皮剥き」というのは「どこまでいっても終わりがない」という意味ではない。『ちびくろサンボ』の「バター虎」と同じく、「どこまで行っても終わりがないプロセス」に身を投じたものは「どこか」で「虎がバターになる」ような種類の変容を経験するということをこれは意味している。
 その「私」とやらに正面から出会うことが出来るかどうかはともかく、人が人である以上、この「私」なるものはそこら中に転がってるものではないかしら。そして「虎バター化現象」も内省大好きっ子にだけじゃなくて、そこら中で起こってる。
 この文章を読んでるあなたが「ん? 当然、私もまた喋らされているんですよ。当たり前じゃないですか、あはは」とか、したり顔で喋ったとしたら、その瞬間にも虎バター化現象は起こってて、そして、あなたの後ろ頭には何気ない顔をして「私」が座ってる。