新城カズマ「サマー/タイム/トラベラー」、あるいはストーリーの二段ロケット。

(ネタバレ回避のために少し下げる)

























 ……えーと、とても幸せな「雫」の反転バージョン?

あたりで、大方のことは書かれてしまってる気がするのだけど、思ったことを少しだけ。

 とある自転車乗り(コージン似。あと、趣味の悪いSFやら感傷的なハードボイルドやらを読んでいるらしいよ)と議論になった。僕はこの作品のクライマックスからエピローグへの繋がりをとても重要だと思っているのだけど、彼にしてみればエピローグは単なる蛇足なのだそうだ。「クライマックスのアレこそが重要なんじゃないですか!」

 うん、確かにあのクライマックスは良いね。でもさ、仮にエピローグが無かったり、あるいは単なるクールダウンだったりした場合のことを想像してみなよ。その場合に余韻として残ってしまうのは「仮にもし僕が泣いていたとしても、そのとき僕は一人だったのだから誰も知っているはずはない」⇒「うるさい!泣いてなんかいないよ!」ではないのかしら。
 言ってしまえばそれは「誰も居ないところで倒れた樹の音」とか「今までの話は、ぜーんぶウソ!」とか、そんなレベルのジレンマなわけで。こういうジレンマが悪いとは言わないけど(本当は言いたいけどさ)、その種のジレンマに対して「感傷的な、余韻を残すようなカメラの長回し」なんてやってしまったら、それはもう目も当てられないくらいにダサいことになるのではなかろうか?

 もちろん実際には、こちらの予想を裏切るようなスピード感にあふれるエピローグがクライマックスの余韻を吹っ飛ばしてくれたわけで。クールダウンされないことによって、一瞬のうちに通り過ぎることによって、あのクライマックスは救われていると思うのですよ。


 以前に新城カズマ「星の、バベル」を読んだときには、確かに面白かったんだけど、クライマックスでの「ぜーんぶウソ!」に相当に萎えてしまったという記憶があって。そのせいで僕は新城カズマに「あと一歩のところで、最後のアクセルが踏めないひと」(代表例:山田正紀)だという印象を持ってしまってたのだけど、それを健やかに裏切ってくれたので嬉しい限りです。