「サマー/タイム/トラベラー」(続)、「である」と「けれど」

(これまたネタバレ回避のために下げておきます)

























http://d.hatena.ne.jp/rulia046/20050807/p1
を受けて追加。電波っぽい文章ですが。

>すなわち、人間讃歌。
まあ、そうなのかなあ? とも思うけれど。
でも、僕の捩れて下卑たココロは、人間讃歌っつーより「ハイスペック人間」賛歌、だろ、と呪詛のコトバを吐くのであった。SFってそーいうトコがヤだよなあ、とかさ


 確認というわけではないのですが、ひとつ。
 夏葉薫氏が( http://www1.cds.ne.jp/~tp/books/readone.cgi?tnum=223)で言ってる「人間賛歌」って、ブルース・スターリング「スキズマトリックス」を人間賛歌と評してしまうのと同レベルのものなのではないかしら。んで、その人間賛歌というのは、たとえば同じスターリングでも『巣』(「蝉の女王」)のクライマックス、「確かに宇宙の圧倒的な広大さの前には人間なんて塵芥に等しい。けれど俺たちはそこに抗ってみせる。人類を舐めるなよ!」みたいなそれ、とは対極に位置しているように思います。


『巣』で示されたような、否定的/ジレンマの中に、ある種の人間性マジックワード!)のようなものを見出そうという行為があるように思います。おそらく人文分野にはこれに対応する用語があると思うのですが、浅学さゆえに僕は知りませぬ。とりあえず自分勝手に「『けれど』のヒューマニズム」「葛藤(ジレンマ)的ヒューマニズム」とでも呼んでおくことにします。「喪失と成熟」マニアなんてのも、一種この手合いですやね。
 んで、夏葉氏の「である、と言う事の魅力が精一杯に発揮された一つの傑作」という部分は、この「けれど」に対して「である」というカウンターを当てたものだと読まれるべきではないかと。
 もちろんというか「けれど」と「である」との関係は複雑怪奇ではあります。「けれど」を強調するには事前に「である」を強調しておく必要がある。たとえば「この宇宙は無限に広大『である』。この私は有限で矮小な存在『である』。けれど――」とか「未来は不確か『である』けれど、明るい未来の可能性に俺は賭ける」とか、そんなの。


 この「である」と「けれど」の関係について詳細に立ち入ることは、現在の僕の手には余る話ではあります。ただ少し書いておくと「サマー/タイム/トラベラー」に関しては上記の反対というか、本文には序盤から執拗に「けれど」が散りばめられているんだけど、でもそれはフェイク(叙述トリック!)としてしか機能していないというのが面白いところだと思います。確かに各キャラクターは作品中で各々前進するのだけど、でもそれは「ダメな俺だけど」とか「○○だけど、それでも信じる」とかそんな性質のものではないわけで(いやまあ、これってクライマックス直前のアレをどう解釈するか、ということになるのですが)。
 るりあ046さんの「信じて、買ったかいがあったというもの。(中略) 賭けは俺の勝ちだ。久し振りに勝たせてもらったよ。ありがとう」という文章を読んだときには、「いやまあ良い話ではあるけど、『サマー/タイム/トラベラー』という作品の内容とは正反対なのが面白いかも。だって、あれって『賭ける』話じゃねえもんなあ」と僕は思ったものでございましたよ。