上の続き。

そうではなくて、主体の側の条件として、愛するかどうか、を考えている。愛してなくても愛されることは可能だと思うけど、そんなことして意味あるのか、というか、それは、「恋愛したい」というとき、意味されていることとはいえないのではないか、ということです。
 いやその。たとえば誰かが街のカップルどもを眺めながら、「いいなあ。カレシ/カノジョ欲しいなあ。一緒に遊園地や水族館に行きたいなあ。手を繋いで歩いてみたいなあ」と思っていたとする。この彼/彼女の感情を、すぐさま「恋愛したいと思っている」と置き換えてよいかというと、そりゃどうにも間違ってる気がするわけですが。


愛が本質的に不安で、部分的には破壊的でリスキーなものという認識がきちんとあれば、愛することをあらかじめ、その成就が保障されないからと意識的・無意識的に忌避するということがなくなるだろう。
 この社会(←テキトーな表現)においては「愛する/愛されることの恍惚と不安、そして、自分の求愛が受け入れられるかどうかの不安を抱きつつ、恋愛という関係の中へと決死の跳躍!!」という状況そのものが、一種の見せ物として流通してしまっているのではないかしら。

 恋愛の名のもとに愛情の「不安かつ破壊的でリスキーな側面」が強調され、自己完結性の暴力的喪失が言祝がれるとき、そこで実際に起こっているのは何なのだろう。
 ちょっと上手く言えないけれど、それって「破壊的でリスキーなものによって、他人を不安に陥らせたい」とか「他人の自己完結性を暴力的に壊したい」とかの欲望が発露してるだけなんじゃねえの? という危惧が僕にはあるわけです。