少し前に野嵜さん(http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/)が書いてらっしゃった素敵文章。

 全ての苛めに言へる事だが、苛める側は誰も否定出來ない眞理を持つてゐる。苛められる側についての正確な認識を持つてゐる。問題は、苛める側が、その眞理を、その正確な認識を、常に直接、苛める事の正當性を主張する論據として――と言ふより、そのたつた一つの事實を錦の御旗のやうに押し立てる事だ。部分的な眞理を申し立てる事によつて、全體的な人格を否定する――それが苛める側の常に使ふ手だ。「苛めは行けない」と叱られた時、「でも、あいつは○○だ」と、苛める側は昂然と顏を上げて、事實を指摘する。その事實と云ふ論據と、「苛めるのは正しい」と云ふ結論は、論理によつて結び附かねばならないし、常に結び附かないから苛めである訣だが、しかし、その論理を否定する事は空しい。苛める側は、その論理の破綻を指摘されても、常に「事實は事實」と言張るからである。その事實が搖らがない限り、苛める側は何時までも「俺は正しい」と言張る。
(平成十八年十月三十日)