脳内ワセダ、見下ろす、残酷さ。

http://d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/20080312#p2
街は見下ろすものじゃない
地べたから眺めるもんだぜ。一年居候した高田馬場とかは、エキゾチックで、胡散臭い人が胡散臭いまま生きていてもよさそうで、とても好きな街だけど。

僕の数少ない経験から得られた脳内高田馬場というのは、街を見下ろすひとが随分と多そうな街なのですが。というのはともかく、「エキゾチックで、胡散臭い人が胡散臭いまま生きる」ことと、その胡散臭く見える人やその人の周辺の人が街を見下ろす視線を持っていることは何の矛盾も無く両立し得るように思います。
たとえば、西原理恵子の作風の二面性について考えると分かりやすいかも知れません。



まあ、もちろん「見下ろす」の定義によるんですが。僕がここで想定してるのは、たとえば「おいどんはただ生きているだけよ−平民新聞」辺りの方向性です。

ただ、ぼくにはどうしても、他者に対して持ちたくない視点、というかある方向への視線、があって、それがどういった視線なのかというと、それはなかなかひとことで言えないし、きっと言葉にして発する事はないと思う。やさしくありたい、とかそういう風に思ったことは一度もないけれど、自分の持っている残酷さには徹頭徹尾自覚的でありたい。

なんていうか、頭悪い人ですよね。いいから他人にやさしくなれよ。残酷なことするなよ。でも、こういう人って、すべてを捨ててもその視線だけは持ち続けようとするからなあ。そして、その頭の悪さと心中するの。


というわけでというか、何というか、残酷さというものを巡って考えるために大川正彦「正義」とか読んでます。リチャード・ローティ「偶然性・アイロニー・連帯」の後半部分に関心のあるかたには重要かもしれません。

はてなポイント送った

さっきコンビニではてなポイントを買ってきてid:reponさんに1000ポイントほど献金してみました(⇒スクリーンショット) どういう理路だ。

参考:

404 Blog Not Found:小市民の敵は、小市民
君の年収分を賭けてもいい。彼らにはそんな自覚ないから。それどころか彼らは彼らで「俺たちがこんなに一生懸命やっているのに、なんであいつは足を引っ張るんだ」、と思っているから。

召還していないのにマッチョマンから応答が届いたので、せっかくだから質問します
これマジですか?ホントにくれるんですか?なら納税証明書を送るので、はてなポイントでください。僕のこのエントリ「敗残兵から一言」にコメントしてくれた人、ブックマークしてくれた人、トラックバックを送ってくれた人全員に分配します*1。2回もエントリを書いてくれたid:kagamiさんには2倍送ります。その資金でソフトや本を買ってレビューしてもらいたいので。kagamiさんなら、danさんが絶対に読まないような本やゲームについてレビューしていただけるでしょう。「シゴフミ」も「狼と香辛料」もkagamiさんから教えてもらったから、レビューを期待です♪戦友のid:sync_syncさんには10倍送ります。当然です。

それが、人に身銭を切らせる時の貴方の作法なんですか?
しかし、幾ら相手が「君の年収分を賭けても良い」と言ったとはいえ、人に身銭を切らせる際に、この作法はどうなんだろう?浮かれるのは分かるし、自分のエントリを支持してくれた人にフィードバックをというのも分かる。分かるんだけど、まるっきし「言質をとったから金をくれ」じゃないですか。いや、これがまだ、1000円程度の贈与だというなら問題ないかもしれません。ですが、ここでやりとりの対象になっているのは、なんと驚くべきことに、reponさんの年収分だというじゃありませんか。年収分って言ったら安い金額じゃない。安くても百万以上の額でしょう。いくら言質をとったとはいえ、赤の他人に身銭を切れというにあたって、これは無いんじゃないですかね。

どう見てもバカなあいつのこと

『1ヶ月間だけ、思い切りがんばれば。』
http://d.hatena.ne.jp/guri_2/20080109/1199875970

『「地道な努力」よりも、はるかに人生を好転させる努力の仕方』
http://d.hatena.ne.jp/fromdusktildawn/20080111/1200020891

あと、

『努力教とハゲタカ教と最善説』
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20080112/p1

について。

世の中に関心を持つなという考え方がありがたがられるのは、もう、ちょっと個人的にダメです。
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20080112/p1

「全然違うよ」とまでは言わないけれど、上記2つのエントリはどちらも、誰かに対して悪い意味で関心を持つこと、誰かをダシにすることによって成立しているのではないかしら。id:fromdusktildawnの該当文章は「ほら、要領の悪いひとが居るじゃない(笑)本人は一生懸命マジメに努力してるつもりでいるんだけど、方向が全然見当違いでさ(笑)そりゃお前、努力って言わないだろ(笑)」的な嘲笑に支えられているし、id:guri_2のひとに関しても次のエントリーで

「自分はこういう人間だから」って、さらっと自分の性格を解説しつつすねたり、
さんざん自分語りしたあげく、「自分を認めてくれる人だけ認めてくれればいい。みんなに好かれようとは思わない」とか、
もう、わかって欲しいオーラ出しまくりながらひねくれるんじゃねーよ(笑)
http://d.hatena.ne.jp/guri_2/20080110/1199971633

なんて書いている。いやアンタ、ダメだろそれ。


 毎日コツコツと頑張ることが重要だと考えた場合、「じゃあ、何を頑張ろう?」という問題がやってきます。近道を探す努力が重要と思ってみても「近道を探す能力を伸ばしたいのですが、その近道はどこですか?」的な堂々巡りがやってきて大惨事です。まったくもって面倒なことで、世の中は不確かさで一杯に思えてきます。でも、この不確かさの海の中にも確かなものがあるのではないでしょうか。何でしょう? そう、バカなあいつのことです。

  • 本人は一生懸命マジメに努力してるつもりだが、どう見ても間違った努力をしているために(笑)能率がまるで上がらないあいつ
  • わかって欲しいオーラがどう見ても出まくりなのに(笑)、それを絶対に認めようとせず、ひねくれた態度をとっているあいつ

 自分のことに比べて、あいつのバカさ加減はなんと自明に思えることでしょう! さらに言うならば、ある種の信念は、他人と自分との認識のギャップであったり、無知な他人が居るという信念だったりに支えられているのではないでしょうか。つまり、

  • どうしようもなくドンくさいひとが居るよね(笑)

と思うことによって、id:fromdusktildawnは「ハゲタカで大儲けするために、明日から近道探しをコツコツ頑張るぞー!」と自分に言い聞かせることができるのです。


 いや、それってどーなのさ。

 kantankさん(http://d.hatena.ne.jp/kantank/20071226)へのお返事。

ちなみに、大人なコミュニケーションとしては、「ちなみに、どうしてサイバネティクスについて関心を持っているのですか。こちらも関心に沿えるような回答ができるか心配なので伺いたいと思います」みたいな言葉遣いをすることだったりするわけですが。

 kantankさんと関連しそうなところで答えてみますね。ちょっと上手くまとめられないのですが。
 ある種のビジネス書(サブジャンルだと、仮説思考とか自己啓発とか?)を読んだときに、それらの本が「何かを知る/考えること」と「何らかの行動を起こすこと」を不可分のものとして扱おうとするやりかたが、僕には非常に興味深く/気持ち悪く感じられることがあります。そして、それらのビジネス書的思考が、サイバネティクスにおけるフィードバック概念だったり、意思決定理論における主観的確率関連の話題(ベイズとか)だったりをつまみ食いしたときに何が起きるのかについて、僕は関心を持っています。
(ついでにグダグダな話をしてみると、仮に「専門知識なんてつまみ食いで良いんだよ!」という思考があったとして、その説を補強するために動員されるのが「脳科学、科学哲学、などなど……に関しての、つまみ食いされた専門知識」だったとしたら、一体そこでは何が起こっているんだろう?*1 とか、そんな感じのことを考えてみたりもします)
 えーと、お答えになってますでしょうか?

*1:ちょっと付け加えておきます。ここでのポイントは「つまみ食い」ではないことに注意していただけると幸いです。ある知的生産の方法が、自らの有用性の拠りどころを、幾分なりとも別ジャンルの専門知識(たとえば脳科学とか)に置いていたとする。でも、その専門知識をどう取り扱うかということ自体が、その知的生産の方法によって影響を受けているとしたら?という、いささかself-referentialな話で、それゆえグダグダなのです

http://d.hatena.ne.jp/kantank/20071225/1198602402
ちなみに、数理社会学行動経済学が登場する以前は、サイバネティクス構造主義、システム論がこれらの学問の代わりを果たしていた。その役割は個人の思惑を超えた社会の総意としての日常的・人間学的な認識を取り扱うことにあった。

 総体として意味不明なので、もう少し解説していただけると幸いです。たとえばサイバネティクスについて。