先の日曜に川崎で焼肉食ってたときに、有村(id:y_arim)を呼ぶかと電話したのに繋がらず、大層がっかりしたというのがあって。なんでも、白熊(id:p_shirokuma)とかいうひとと、

というやりとりをして、その影響で精神錯乱して電話に出れなかったそうな。何だよそれ。とりあえず、白熊とかいうひとは僕のリアルの充実に損害を与えたことに対して大いに反省してくださいとかそんな感じ。白熊というひとに関しては、その、こんな精神科医はイヤだとゆーか。いや、本当に精神科医なのかどうか知りませんけど。何とゆーか、こんな文章を思い出してみたり。

 欠損構造=葛藤構造を抱えた主体を神経症者と呼ぶのなら、欠損を想像的に充填してしまった(「欠損が存在しない」のではなく)主体を、われわれは仮に「人格障害者」と呼んでおくことにしよう。想像上の存在である人格障害者は、自らを語り尽くす言葉を持った主体である。彼はいささかもためらいもなしに「加害者」を自称できる。葛藤を知らない主体は他者に対して加害者としてしか関わることが出来ないためだ。彼らは自らの鋼の無謬性によって、他者を暴力的に排除する。彼らには間違っても他者に「共感」してしまうような愚かしいナルシシズムの持ち合わせはない。ひたすら無謬性の円環にひきこもり、不可知論の鎮静作用を利用しながら、否定神学論者=人格障害者は他者を疎外する。人は生まれ神経症者となり、神経症者として一生を終える。まれに神経症の(想像的)治癒に成功したものが、人格障害者へと進化する(疑うものは自己啓発セミナーのめざましい成果を見よ)。願わくはそのような人格障害者が私的空想の産物であり続けますように。
http://homepage3.nifty.com/tamakis/%8D%D6%93%A1%8A%C2/Psychopathology.html

 少し前に野嵜さん(http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/)が書いてらっしゃった素敵文章。

 全ての苛めに言へる事だが、苛める側は誰も否定出來ない眞理を持つてゐる。苛められる側についての正確な認識を持つてゐる。問題は、苛める側が、その眞理を、その正確な認識を、常に直接、苛める事の正當性を主張する論據として――と言ふより、そのたつた一つの事實を錦の御旗のやうに押し立てる事だ。部分的な眞理を申し立てる事によつて、全體的な人格を否定する――それが苛める側の常に使ふ手だ。「苛めは行けない」と叱られた時、「でも、あいつは○○だ」と、苛める側は昂然と顏を上げて、事實を指摘する。その事實と云ふ論據と、「苛めるのは正しい」と云ふ結論は、論理によつて結び附かねばならないし、常に結び附かないから苛めである訣だが、しかし、その論理を否定する事は空しい。苛める側は、その論理の破綻を指摘されても、常に「事實は事實」と言張るからである。その事實が搖らがない限り、苛める側は何時までも「俺は正しい」と言張る。
(平成十八年十月三十日)

 優越感ゲームだの、あるいはメタメタした感じの自省だのといったものから距離を置く一つの方法として、自分以外のひとの話をするというのがございます。でも、たとえば「貴方は他人のことを悪く言うことで、優越感を得ようとしてますね?」と問いかけられたとしたら? 2つのオプションが考えられます。

  1. 「そんなことはありません。私は単純に彼/彼女について述べているだけですから」
  2. 「そうかもしれませんね。でも、たとえ私がそうだったとしても、彼/彼女が○○だということが変わるわけじゃないですよね?」

 本当のところ、この2つは貴方の心の中で連係して働くために分離することが難しいのですが、とりあえず相手からの具体的な問いかけに対しては(2)で返すのが得策でしょう。(1)で返してしまうと相手の質問に対して受身に回ってしまい、「貴方が優越感を得ているかどうか」が争点になってしまう可能性があるため面倒なのです。先手を取って、あくまでも貴方は自分以外のひとの話をしたいのであって、自分のことなんてどうだって良いというアピールを行いましょう。

  • 相手:「この腐れ外道が!」
  • 貴方:「そうかもしれませんね(でも、たとえ私がそうだったとしても……)」
  • 相手:「結局それって、自分のことなんてどうだって良いことをアピールしたいためのポーズなんだろ?」
  • 貴方:「そうかもしれませんね(でも、たとえ私がそうだったとしても……)」

 このように、心の中でそっと「でも」と付け加えることで大概の状況に対応可能な(2)は、汎用性が高く便利なメソッドだと言えます。