Slavoj Zizek ”You May!”(その6)

(Perhaps the best example of the universalised reflexivity of our lives is the growing inefficiency of interpretation. ……)
 おそらく、我々の生活における普遍化された再帰性を示す最高の事例は、解釈というものの有用性が減少しつつあることだろう。伝統的な精神分析は『暗黒大陸』としての無意識の概念に依存していた。そこにおいて無意識とは、主体の中にある見通すことのできない実質であり、解釈という手段によって調査されねばならないものである。そして、この無意識的な内容が日の光のもとへと出されることによって、患者の解放された新しい意識が生まれるのだ。
 今日、無意識の構成は(夢から、ヒステリー性症候に至るまで)その無垢性を失ってしまっている。典型的教育を受けた患者の『自由連想』は、ほとんどの場合、患者自身が自らの状況を精神分析的に説明しようとする試みになってしまっているのだ。
 それゆえ我々は、アンナ・フロイト派的、ユング派的、クライン派的、ラカン派的に症候の解釈をするだけではない。患者が示す症候それ自体が、アンナ・フロイト派的、ユング派的、クライン派的、ラカン派的になってしまっているのだ。そして、それらの症候は、何かしら既存の精神分析理論への言及無しには、存在することができないのだ。
 この再帰化による不運な結果としては、精神分析家の解釈がその象徴的な有効性を失ってしまうことで、症候を無傷のままで愚かしい享楽の中へと放置してしまうということが挙げられる。
 それは、ネオナチのスキンヘッドが自らのふるまいの理由を説明するように求められたときに、あたかも彼自身がソーシャル・ワーカーや社会学者、社会心理学者であるかのように、「社会的流動性の減少」「社会不安の増大」「父親の権威の崩壊」「彼の幼年期における母性愛の不足」などに言及しながら話し始めるようなものである。