平川秀幸「科学は誰のものか 社会の側から問い直す」
http://www.amazon.co.jp/dp/4140883286 (62-67ページより)
BSE問題が引き起こした「信頼の危機」
このような参加型テクノロジーアセスメントの登場に見られる欧州の「統治からガバナンスへ」の動きは、1996年のある事件で一気に加速されることになる。いわゆる「BSE(牛海綿状脳症)危機」だ。86年に英国で発見されたBSEは、長らく牛から人への感染はないとされてきた。初期に調査を行った政府のサウスウッド委員会は89年2月に報告書を発表し、「人への感染リスクは極めて小さい」と結論づけた。政府はこれを根拠に安全性をアピールし続け、「安全宣言を危うくする恐れがある」という理由から何ら予防措置を施さなかった。その背景には、英国畜産業への打撃を恐れた当時の英国政府の思惑があったことが、後の調査で明らかになっている。
実をいえば報告書は、「評価が誤っていれば、その含意は極めて深刻」「長い潜伏期間を考えると、完全な証明は10年かそれ以上かかる」「人への感染の可能性を完全に排除することはできない」とも述べていた。しかし、この可能性が現実的なものだと主張できるだけの説得力のある証拠はなかったこと、また上述のような政治的思惑もあったことから、この但し書きは無視され続けたのだった。
そして結果は科学者たちが懸念していたとおりとなった。BSE感染牛を食べたことが原因と考えられる新型の人の脳症(変異型クロイツフェルト・ヤコブ病)の例が次々と見つかり、ついに96年3月20日、英国政府はBSEが人にも感染することを公式に発表せざるをえなくなったのだ。その結果、政府だけでなく、科学者や科学そのものに対する深い不信が、英国民、さらには欧州市民のあいだに広がることになった。
そして、これに追い撃ちをかけるようにしてわき上がったのが、遺伝子組換え作物の安全性をめぐる論争だ。世界に先駆けて商業栽培を開始した米国の組換え食品(トマトピューレ)が欧州市場に登場したのは96年2月のこと。すでに起きていたその安全論争を、BSE危機が一気に加熱させたのだ。消費者の不安は一気に広がり、英国王室のチャールズ皇太子から大手スーパーまで巻き込んだ反対・排斥運動が湧き起こったのだ。
これに対して英国をはじめとする各国の政府や開発企業、科学者たちは、組換え作物の安全性を訴えたが、BSE危機を経験した消費者には全く通用しなかった。なぜか。
一つには、食品やテクノロジーの安全性を保証するための科学が信用されなくなっていたからだ。安全といっても、それは現時点で知られている科学的証拠に基づいたものに過ぎず、BSEのように、今は知られていないリスクが将来明らかになるかもしれない。消費者はそのように考えたのだ。
また、政府や企業に対する消費者の不信感も根強かった。彼らは、自分たちの利益を守るために消費者の健康を犠牲にしているのではないかと疑われていたのだ。このような科学と政府・企業に対する深い不信感の広まりは、後に「信頼の危機」と呼ばれるようになる。
「理解」から「対話・参加」へ
こうした危機の結果として、英国の政府や科学界を中心に起きたのが、科学技術に関するコミュニケーション(科学技術コミュニケーション)の考え方やスタイルを「統治」的なものから「ガバナンス」的なものに抜本的に転換することだった。信頼の危機が訪れるより前の伝統的な科学技術コミュニケーションのスタイルは、英国では「一般市民の科学理解(PUS: Public Understanding of Science)」と呼ばれている。1985年に同国の権威ある学術組織ロイヤルソサエティが発表した同名の報告書に由来する呼び名だ。日本では「科学技術理解増進活動」という。その一番の目的は、科学技術に対する一般の人々の興味・関心を高め、科学的な事実や基本概念、方法論についての正しい理解——「科学リテラシー」ともいう——を広めること。そうすることで、人々が科学技術に関連する日常生活や社会の問題について合理的に判断したり、科学技術に肯定的な態度をもつことが期待された。
そのスタイルは、大学や研究所、学会などによる講演会や公開講座、科学博物館での展示やイベント、啓蒙的な雑誌や書籍、テレビ番組、政府からの情報提供など、「知識のある者から、ない者へ」という一方向的なもので、政治学的に見れば、まさにトップダウン的な「統治」のパターンが主流だ。
遺伝子組換え作物のときもそうだったが、新しいテクノロジーに対して人々が不安になったときに行われるのは、まさにこのタイプのコミュニケーションだ。その背後には、「一般市民は科学の正しい理解が欠けており、そのために不安になったりするのだ。だから正しい理解を広めれば不安はなくなる」という考え方が隠れている。これを科学技術コミュニケーションの「欠如モデル」という。これに基づいて「ご理解ください」=「安心して受け容れてください」と説得するのが伝統的なやり方だったのだ。
ところが、このようないわば上から目線的な「ご理解路線」「啓蒙・説得路線」のコミュニケーションは、信頼の危機を前にしては全く通用しなかった。
なぜなら、このコミュニケーションは、「すでに正しいと分かっている知識」または「現時点で正しいとされている知識」をもとにしているため、BSEや遺伝子組換え作物で問題となったような「未知のリスクがあるかもしれない」という不安や、「そもそも政府や企業、これらと結びついた科学者の言うことは信用できない」という不信感の前では説得力がないからだ。それどころか、「彼らは未知のリスクの可能性を無視して、BSEと同じ過ちを繰り返す気か」という具合に、余計に不信を買ってしまいかねない。
そして、こうした御理解・啓蒙路線からの転換として、英国の政府や科学界が選んだのが、先の参加型テクノロジーアセスメントに代表されるような、科学者、政府、産業界、一般市民らのあいだの双方向的な「対話」や、政策決定への「参加」を重視する「公共的関与(public engagement)」というスタイルだった。
英国では議会の委員会が、この転換の必要性をアピールした二つの報告書を2000年、01年に相次いでまとめ、それ以降、公共的関与のための活動が全国的に推進されるようになった。欧州連合(EU)でも2002年以降、欧州委員会の研究総局(日本の文部科学省に当たる)が、科学者たちと市民との対話促進のための「科学と社会」というプログラムを続けている。
原発災害シンポジウムについての個人的なメモ
先日、9/18に行われた日本学術会議の公開シンポジウム「原発災害をめぐる科学者の社会的責任」( http://www.scj.go.jp/ja/event/pdf/133-s-1-2.pdf )ですが、
などのまとめがすでに上がっています。また当日配布された資料については、非公式ですがスキャンしたPDFを以下のリンク( http://goo.gl/9ZemR )よりダウンロードすることができます。
このエントリーでは主に、パネリストの1人である唐木英明氏の発言および、氏と他のパネリストとの応答に焦点を当てた形で、わたし個人のメモをまとめたものを記しておきます。
唐木氏の発言に着目した理由ですが、わたしは唐木氏の発言には完全に反対の立場であり、それゆえ、氏の発言については注意して聞く必要がありました。(他のパネリストの方々の発言を聞くときのように「うんうん。そうだよね」とうなずきながら聞くというわけにはいかないので)また、唐木氏vs.他のパネリストというかたちで議論が進むことが多かったため、そのようなやりとりに着目することで重要な部分を抜き出すことができるのではと考えました。
注意!
以下の文章はわたしの断片的なメモと記憶に基づき再構成したものであり、議論の流れを分かりやすくするために編集を行っています。抜け落ちているところもありますし誤りもあるかと思います。ここに書かれた内容を元にパネリストの方々の「言質を取る」のは控えていただきますよう、お願いいたします。あ、そうだ。あと「こんなことを話し合ってる暇があるなら……」的なコメントはなしということでお願いいたします。
第1部 各パネリストの個別報告における唐木氏の報告
- タイトルには「安全の科学および先進技術の社会的影響評価」とあるが、時間の関係で前半の「安全の科学」に的を絞る。
- 【リスクを取り扱うための、管理・評価・コミュニケーションの3要素について】*1
- 【リスク評価について】
- リスク評価には不完全性がつきまとうが、不完全だからといって評価ができないわけではない。
- リスク評価のために必要な科学というのは、それほど大きな(多岐にわたる?)ものではない。
- 価値観や感情、経済面からリスク評価に影響を与えようとする圧力がある。
- 政策決定者が責任をリスク評価者に負わせる風潮がある。米国産牛肉の全頭検査についてなど。
- (「長期的被曝の影響は急性被曝より少ないという研究結果がある」という内容のスライドがあったが、一瞬表示しただけで説明せず、即座に次のスライドに移った)
- 20mSVとはどれだけの大きさのリスクなのかをイメージするには他のリスクと比較する必要がある。
- (国立がん研究センターのリスク間の比較を引用して*2)100〜200mSVの被曝は野菜不足と一緒だとイメージすることが可能になる。
- 放射線の対策を実施することで発生するリスクについても考える必要がある。
- たとえば避難させることによるリスクは非常に大きなものである。どちらのリスクが大きいのか比較してリスクの総和を小さくする。
- 高線量については線量だけでリスクを判断する必要があるのは当然だが、現状では原発労働者のみだと考えている。
- どこからが低線量かという問いについては科学者には答えが出せず、国民と政治家が答えを出すことになる。リスクコミュニケーションが重要。
第2部 パネリストによる全体討議
- 【唐木氏の広報よこはまへのコメントについて】
- 【押川氏と唐木氏のやりとり】
- (押川氏)原発事故の放射線を自然放射線の線量と比較するというロジックがそもそも疑わしいのではないか。自然放射線に原発事故の放射線が上乗せされると、LNT的には発がん率がそれだけ増加することになる。
- リスク評価と、その評価結果をどのように判断するかという問題がある。(国立がん研究センターが示したような)リスクの比較は科学的ステートメントだというが、それ自体が政治的なものだとしか思えない。たとえば、数年前の秋葉原通り魔事件において、通り魔にあうリスクと喫煙の害を比較したひとはいなかった。
- (唐木氏)横浜市の線量については、全体(自然+人工)の線量が宇宙からの放射線と同じであるため、上乗せはない。
- 感情的な発言が多いですが、もっと科学的に発言いただけると、と思います。*5
- (押川氏)原発事故の放射線を自然放射線の線量と比較するというロジックがそもそも疑わしいのではないか。自然放射線に原発事故の放射線が上乗せされると、LNT的には発がん率がそれだけ増加することになる。
- 【専門科学者によるリスク評価の独占について】
- (島薗氏)唐木さんはリスク評価は科学者だけでやると強調されたが、なぜ「だけ」なのか。狭い専門家だけで実施するとなると問題ではないか。
- (唐木氏)リスク評価を科学者だけでやるのはどういうことかということについては、化学物質の安全性を例として説明する。
- 【リスクの複合性について】
- 【原発のリスク評価と放射線被曝のリスク評価】
- (島薗氏)小林さんは食品安全委員会を比較的高く評価していたが、放射線関連の委員会についてはどのように考えているか。
- (小林氏)まったくダメだと考えている。一部の原子力関係者は外部とコミュニケーションをとらないとダメだと考えているが、全体としては双方向性はあくまで外付けのものになってしまっている。
- 東北大で、原発賛成派と反対派による対話を行うという社会実験を行ったが上手く行かなかった。賛成側も反対側も、それぞれの役割というか社会構造の中にはまってしまっていて自由に議論できない状況があると思う。
- (唐木氏)原発のリスク評価と、放射線が健康に与える影響の評価とは、分けて考えるべき。原発のリスク評価はまったくダメだった。
- (島薗氏)ICRPによって解決済みだと唐木さんは考えているかもしれないが、私は反対だ。いまだ討議すべき領域だと考えている。
- (押川氏)ICRPは唐木さんの言うリスク管理にも踏み込んでいることになる。小林さんが言うリスク管理と評価が分離できない例ではないのか。
- 【ユニークボイス(専門家による一本化された意見)の是非について】
- (唐木氏)学究の世界では異論は普通のことだが、「安全の科学」では少し違う。とにかく何らかの規制をしなければならないという事情がある。そこで、だいたい皆が一致しているところはどこかという所を探す。
- 【押川氏、唐木氏の枠組みに疑念を投げかける】
- (押川氏)ICRPは唐木さんの言うリスク管理にも踏み込んでいることになる。小林さんが言うリスク管理と評価が分離できない例ではないのか。
- (押川氏)実際に科学者の言動を見ていると、唐木さんの理想的なスキームとは違う。感情的と言われるかもしれないが、完全に中立な研究者はいないと思う。平川さん(平川秀幸氏)が言っていたが、立場によって科学者の意見は違うのではないか。
- 物理学の立場からは科学は主観を排した立場でやるものだと思っていたが、現実、この状況を見ると、そうはなっていない。意図的に、幅広いスペクトルの科学者から意見を集めるということをすべきではないか。
- (司会の金井氏)押川さんがおっしゃった「この状況」という言葉には、科学者それぞれの揺らぎや、自分の依拠していたパラダイムへの疑いといったものが含まれるのではないかと感じた。そのことが、シーベルトを巡るポリティクスには見られるのではないか。*8
- 【聴衆から受け付けた質問用紙での質問について】
- (唐木氏)理系と文系がはなしをいちばんできるのは日本学術会議。今までやってこなかったので、もっとちゃんとやらないといけない。
- (「1mSVであれ10mSVであれ、線量の限度は各個人が決めることではないか?」という質問)
- (唐木氏)政府の役割は国民の健康を守るところにある。20mSV以上の地域について強制避難させるのは政府の大事な役割。それ以下は個人の裁量。
- (「国立がん研究センターが出しているリスク間の比較について、喫煙など自発的要因によるリスクと、放射線のリスクを比較するのは不適切ではないか」という質問)
- (唐木氏)国立がん研究センターにはたくさんの批判が寄せられていると聞いている。喫煙が自発的要因かどうかというなら、受動喫煙はどうなのかという話にもなる。がん研究センターがリスクを比較するのは、リスクの比較を行わないとどこにいくら投資して良いかわからないから。
- 【まとめの一言】
*1:ここでのリスク管理・リスク評価・リスクコミュニケーションという3分類は、以降の全体討議においても用いられたので重要と言えます。
*2:http://www.ncc.go.jp/jp/shinsai/pdf/cancer_risk.pdf の2ページ目
*3:『Not In My Back Yard(自分の裏庭にはあって欲しくない)の略で、施設の必要性は認識するが自らの居住地域には建設して欲しくないとする住民たちや、その態度を指す言葉』(Wikipedia)
*4:個人的にはこの部分にもっとも腹が立ちました。
*5:会場で聞いていましたが、押川氏が感情的な発言をしていたとは感じられませんでした。
*7:小林氏がいいたいのはそういうことではないと思うのだが。
*8:この人、美味しいところを持ってった!
*9:http://www.mext.go.jp/component/a_menu/science/detail/__icsFiles/afieldfile/2011/08/19/1293746_02.pdf の41ページ。『国は、東京電力福島第一原子力発電所の事故の検証を行った上で、原子力の安全性 向上に関する取組について、国民との間で幅広い合意形成を図るため、テクノロジー アセスメント等を活用した取組を促進する』
*10:この部分についても、「ああ、このひと総動員って言っちゃうのか。『みんなで考えてつくっていこう』じゃなくて『国家が科学者を総動員する。科学者は国家に協力すべき』という発想のひとなのだな」と思いました。
『避難リスクは被曝リスクの何倍?』の比較は不適切です。
id:tikani_nemuru_M氏の以下のエントリーですが、出どころ不明のデータを用いて不適切な比較を行っていると考えます。
『避難リスクは被曝リスクの何倍?』
http://d.hatena.ne.jp/tikani_nemuru_M/20110901/1314817487
1: 出どころ不明のデータ
山下俊一氏がインタビューで述べたらしい「チェルノブイリでは避難住民の寿命が65歳から58歳に低下しました」という数字が正当かどうかですが、>海外の専門家の目にもさらされる外国雑誌のインタビューだしにゃ
そんなことを信頼性の根拠にされても困ります。具体的な数字の出どころを示してもらわないと。*1
……冒頭に結論を言ってしまいましたし、正直これだけで済ませたいのですが続けます。
2: 「避難住民の寿命が65歳から58歳に低下」について、もう少し
何年から何年か、のデータかもわからない数字を元になにか言うのは辛いのですが、頑張って続けます。tikani_nemuru_M氏も大好きな疫学ですが、ある集団のなかでの数字だけ見るのではなく、他の集団と比較するのが大事であるようです。そこで、氏も以前のエントリーで挙げていたロシアの平均寿命推移を見てみましょう。
「図録▽ロシアの平均寿命の推移」( http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/8985.html )から引用
男性の平均寿命が「65歳から58歳に」とまったく同じと言っていいぐらいに下がっています。解説によると、チェルノブイリ事故のあとに起こったソ連崩壊による影響を受けているようです。
……あれ、避難者もソ連崩壊による影響を受けてるから、平均寿命の低下が避難によるものかどうか見るのって難しくね?*2
3: 不適切な比較
tikani_nemuru_M氏は移住による環境変化などに伴うストレスと、放射線被曝について比較(らしきもの)をしています。居住し続けることによってもストレスの影響は受けるのですから、明らかにこれは不適切です。たとえば、避難しようとした人間に対して「逃げるのか!」と罵声を浴びせるような環境に住み続けることは普通に考えて苦痛でしょう。また、それ以前に、農家・畜産家の現在のストレスはどれほどでしょうか。
比較するならば「移住したときと、そうでないとき」それぞれについて、各種リスクを列挙して、総計や分散、不確実性などについて検討するべきだと思います。*3もちろん移住については、国や自治体、その他の支援者による支援の程度によっても、ずいぶん値が変わってくるでしょう。
(追記)
コメントがある場合ですが、可能であればコメント欄やはてなブックマークではなくご自身のはてなダイアリーでお願いできればと思います。>id:tikani_nemuru_Mさん。
*1:「65歳から58歳に低下」の65歳というのは、当時のウクライナの平均余命から5歳程度低いもので、どう考えたものか困っています。
*2:tikani_nemuru_M氏は「ソ連崩壊も大きな社会変動、環境の変化を伴ったものであるからして、むしろ自分の主張を補強するものだ」とか言いそうですが。避難という枠組みを外してどうするんですかというか、原発事故の影響を受けている福島のひとたちは、今まさに社会変動、環境の変化のまっただ中にいるだろう、としか。次節の「そもそも、なにとなにを比較しているの?」という話にも繋がります。
*3:なお、はてなブックマークで氏は「居住ストレスは以前に触れている」と書いていますが、そうであるならば当然、今回の比較時に検討項目に含めるべきだと考えます。それを怠っている理由がわかりません。
tikani_nemuru_Mさんとのツイッターでのやりとりについてのメモ(6/21-22)
大変にグダグダ感あふれる内容なので注意してください。お暇なかた以外は読まないほうがよいように思います。*1
d:id:tikani_nemuru_M さんが、福島の放射線基準を巡るご自身のブログエントリー*2のなかで参考文献として挙げていたWHOの冊子『健康の社会的決定要因』*3について、「カネよりも有効なのが何か、の問題としてWHOの冊子を最初に提示してある」*4と述べられたところからスタートします。
わたし:「いや、WHOの冊子は『カネよりも○○のほうが……』のような比較はしてないと思うのですが」
tikani_nemuru_Mさん:「経済的援助と比較して、コミュニティの援助が効果が高いことがブログの別の場所に書いてある」
わたし:「いえ、別の場所に書いてあるかはともかく、WHOの冊子ではどうなのでしょうか?」
tikani_nemuru_Mさん:「冊子のタイトルがそもそも「健康の社会的決定要因」であって、健康の経済的決定要因ではない。冊子の目次を見るだけで、カネだけの話でないことはただちにわかるはず」
わたし:「(カネだけの話じゃない、ということと比較していることは別だと思うのだけど……)『WHOの冊子は社会的要因の話をしている。しかし、カネと比較して有効かどうかの話まではしていない』でよろしいでしょうか?」
tikani_nemuru_Mさん:「あの冊子では直接に比較はしていないが、当然に読み取ることができる」
わたし:「読み取ることができなかったので、本文中の具体的な文章などを引いてご教示いただけると幸いです」
tikani_nemuru_Mさん:「あの冊子の目次で、純粋に経済的な要素が皆無であることから何の意味も読み取れないのか」
わたし:「目次は本文ではないし本文の概要ではないです。本文中から引いていただけますでしょうか」「あと『○○よりも』というのは主張としてはかなり『強い』種類であって、なにかが書かれていない、というだけでは論拠になりません。もう終わり終わり!」
tikani_nemuru_Mさん:「目次は中身と関係がある。あなたがそれらを別のものとして考えていることがわかった」「カネ『よりも』については、ブログの別の場所で触れている」
わたしの考え:「(いやその。目次から仮に何かが言えるとしたら、本文にもそれに相当する部分がなければならない、って言ってるんだけど)」「(だから、WHOの冊子について問題にしてるんじゃん……なんで他の文章が出てくるの……)」
(おしまい)
*1:このやりとりについての私のモチベーションですが、もちろんWHOの冊子の内容についても関心があるのは当然なのですが、あることについて質問したら、別のことについて返事が帰ってくるというのが多くて。「このひと、どこまで分かっていてしゃべってるんだろう」というのが分からなくなったというのがあります
*2:http://d.hatena.ne.jp/tikani_nemuru_M/20110531/1306779017
*3:http://www.tmd.ac.jp/med/hlth/whocc/pdf/solidfacts2nd.pdf
*4:http://twitter.com/tikani_nemuru_M/status/83107677655408640
無限責任あるいは、コップに水が半分(も/しか)入って(いる/いない)
これもツイッターから転載。
安全ですと言っておいて、なにかあったら突然「なんにだってリスクはある。100%の安全は存在しない」と切り替えるとゆー。 http://twitter.com/sasakitoshinao/status/50323831499407360
いい機会だから、一部のアレなひとが言ってる「サヨクは無限責任を押しつけてる!」みたいな話をしましょうか。リスク論に絡めて。基本的には先ほどの佐々木俊尚氏の言動に示されるような「安全です or 何にでもリスクがある」を都合良く切り換える、みたいな話です。
さて。「無限とは数学的に言うと……」みたいな話に真正面から突っ込むつもりはありません。どっちかというと、しりとり的な「無限の限とは、限界のことで。つまり量というよりも、限界面、境界線の話じゃね?」ってことです。あ、結論言っちゃった。
「水がコップに半分しか入ってないと考えるか、それとも半分も入ってると考えるか」って話がありますよね。せっかく自分が「半分も入ってる」ってポジティブシンキングした瞬間に、他人から「あ、半分しか入ってない」って言われるとイラッときたり。
逆のケースもありそうです。私の知人に「絶望からはじめよう。キミには絶望が足りない」が口癖のひとがいます。私が「いや、そうは言ってもこういう良いところも」と返してると、ある日「キミの話を聞いてると、なんだかしらないけど落ち込んでくるんだよ!」って言われました。えっ、っていう。
ここではおそらく、コップに水がどれだけ入っているかというよりも、そのコップの水面、境界線を「どのように領有するか」そして、境界線から相手をどのように突っつくか、が問題にされているのではないでしょうか。あんまり厳密には考えてませんけど。
先ほどの「原発などのリスクについて『安全です or 何にでもリスクがある』を都合よく使い分ける」という構図を、歴史責任や途上国の搾取といった問題に適用してみましょう。「責任はない or 誰しも他人を犠牲にして生きている。反省するなら総懺悔」……なんか聞いたことがある感じですよね?
余談ですが。サンデル先生が出すトロッコ問題などのパズルというのは、まさに「リスクや責任の境界線の上で踊ること、境界線の近くで他人を突っつくこと」半ばそれ自体が目的となっているような何かではないでしょうか。私にはそう思えるのです。
これからの(原発と)バナナの話をしよう。
ツイッターから転載。
唐突だけど、バナナの話をしよう。まず、この図を簡単に見てほしい。人間が、自然界にあるもの含め、さまざまな放射性物質から浴びてる放射線の量を図示してくれる。とてもわかりやすくて啓蒙的だ。
http://dnaimg.com/2011/03/20/radiation-chart/radiation_jp.png
そして、この図を見ると、人間のなかにあるカリウムという元素が結構な量の放射線を出していることがわかる。そして、(健康マニアは知ってるかもしれないけど)バナナにはたくさんカリウムが含まれてる。なるほどなるほど。へー。
ところで、この図の左上に文章が書いてある。「携帯電話の送信チップは放射線を出さずガンの原因にもならない。 ※もちろん携帯電話型バナナはこの限りではない」……このジョークはいったい何だろう?
このジョークは何だろう。この図表が意図している啓蒙に役にたっているんだろうか? 知っているひとがいたら、ぜひ教えてほしい。そして、啓蒙に役立つかどうかは僕は知らないけど、知っていることがある。「じゃあ、このジョークを外すよ」と言ったら、この図の書き手はひどく抵抗するということだ。
このジョークは、いったい何だろう? ……ひょっとしたら、気の早いモンティ・パイソンファンの人たちは「バナナを持って襲ってくる暴漢」の話を考えてるところかもしれないね。うん、もちろんキミたちこそが僕がバッシングしたい連中だ。
もちろん、キミたちは自分たちが不謹慎であると思っていて、そして、あらゆるイデオロギーを笑い飛ばすつもりでいる。ここで考えるべきは、まさにそのジョークとその形式こそがイデオロギーの核ではないかということだ。この図全体が、実はこのジョークに支えられているんだ。
こういったジョークの形をとったイデオロギーは、実のところ自覚するのが大変に難しいようだ。ただ、でも、考えてみてほしい。モンティ・パイソンが最初に放映されてから何年になる? あと、なんて言ったっけ、ゆうきまさみの写真部マンガが出版されてから何年経った?
東浩紀さん、疎開先の伊豆からニューヨークタイムズ紙に「日本人は惨禍に勇敢に立ち向かっている。日本人は自らを誇りに思っている」と寄稿
(3/18 翻訳を一部修正いたしました)
東浩紀さんが疎開先*1から本日付のニューヨークタイムズ紙に寄稿した文章について、後半部分を訳しました。
http://www.nytimes.com/2011/03/17/opinion/17azuma.html?_r=1&src=tptw
内容自体の酷さもありますが、とりあえず、いま言いたいこととしてはhokusyu82さんの以下のツイートに尽きます。
ぼくは逃げる逃げないは個人の立場と判断ですればいいと思うし「逃げろ」というのも「逃げるな」というのも今の東京ではちょっと変だと思う。でもその、だとしても(だとすれば)そんな文章書くなよと。せめて「日本の政府と人々は…勇敢に立ち向かっている。俺は伊豆に逃げた」って付け足してほしい
( http://twitter.com/hokusyu82/status/48345586847580160 )
英語力がない上に、ほとんど辞書を引かずに訳したので誤訳などあると思います。指摘お願いできればと思います。
From the quakes to the tsunami to...
地震から、津波、そして原発での事故に至る、すべての出来事の連鎖について、いまや私たちはみな知っている。そして、はっきりした予想や判断については待つ必要があるだろうが、地震から6日目の今日、ただひとつ言えることがある:日本人は自らの国家を、少なくともこの20〜30年よりも肯定的に見始めているのだ。
第二次世界大戦での敗北以降、日本人は自らの国や政府に誇りを持つことがほとんど出来なかった不幸な人々である。これは、経済バブルが弾け、長きにわたる景気後退が続いたこの20年間にはとくに当てはまっている。首相が何度も交代し、政策が行き詰まり、政治的シニシズムが蔓延した。さらには、1995年の阪神大震災の後の政府の対応が無能であったため、人々からの強い批判が集まった。
しかし今回、状況は異なっている。もちろん、マスメディアは容赦なく原子力事故および停電について、政府と電力会社を詰問している。その一方で支持の声はとても大きい。枝野幸男官房長官(救援活動に関する報道官だ)はインターネットのヒーローになった。また自衛隊の救援活動も賞賛された。
私は日本人が「公共」("the public")についてこれほど考え議論するのを目にしたことがない。ほんの最近まで、日本人と日本政府は、優柔不断で利己的で、不満と些細な言い争いで混乱しているかに見えた。しかし今、彼らは以前とは別人であるかのように、一緒になって自らの国を果敢に守ろうとしている。若い世代の表現を借りるならば、日本人は完全に「キャラ」が変わったかに見える。
奇妙なことに、日本人はいまや日本人であることに誇りを持っている。もちろん、この新しいキャラがどれほど望ましいものであるかは議論の余地がある。ナショナリズムに繋がりかねないからだ。すでにそのような懸念がウェブから立ち上りつつあるのを私は目にしている。にも関わらず、私はこの現象に一筋の希望の光を見いだすのだ。
地震以前、日本は来るべき衰退について心配する気弱な国家であった。人々は国家に何も期待せず、世代を越えた相互扶助や地域コミュニティの信頼は崩壊しはじめていた。
しかし、おそらく日本人は、新たな信頼で結ばれた社会を再建していくため、この惨禍の経験を用いることができるはずだ。多くの人々は自らの優柔不断な自己へと立ち戻ろうとするだろうが、こうした自分自身の(有害なシニシズムの中で麻痺していた)公共心と愛国心に溢れた面を見いだすという経験は、消え去るものではない。
私は海外メディアが、日本人が災害に直面した際の冷静さと倫理的道徳的な(moral)態度について、驚きの声で報じているのを耳にした。しかし、実際にはそれは、日本人自身にとっても驚きだったのだ。「全力で取り組めばできるよ」「国全体がおしまいになるほどの状況じゃない」「「蓋を開けてみればオレたち、国民全体としては捨てたもんじゃないよな」これが、この数日の間、いささかの当惑と共に日本人が感じたものなのだ。
私たちのこの感情はどこまで拡げることができるだろうか。一時的なものか、それとも社会へと拡げていけるものだろうか?私たちのこの感情は、時間的にそして社会的にどこまで拡げることができるだろうか。この問いの解答は、復興が成功するかどうかーー現在の災厄だけでなく、過去20年間続いた停滞と絶望からのーーによって示されるだろう。
【著者紹介】
東浩紀は早稲田大学教授であり、「オタクーー日本のデータベース的動物」*2の著者である。この記事はShion KonoとJonathan E. Abelによって日本語から翻訳された。