無限責任あるいは、コップに水が半分(も/しか)入って(いる/いない)

これもツイッターから転載。

 安全ですと言っておいて、なにかあったら突然「なんにだってリスクはある。100%の安全は存在しない」と切り替えるとゆー。 http://twitter.com/sasakitoshinao/status/50323831499407360

 いい機会だから、一部のアレなひとが言ってる「サヨク無限責任を押しつけてる!」みたいな話をしましょうか。リスク論に絡めて。基本的には先ほどの佐々木俊尚氏の言動に示されるような「安全です or 何にでもリスクがある」を都合良く切り換える、みたいな話です。

 さて。「無限とは数学的に言うと……」みたいな話に真正面から突っ込むつもりはありません。どっちかというと、しりとり的な「無限の限とは、限界のことで。つまり量というよりも、限界面、境界線の話じゃね?」ってことです。あ、結論言っちゃった。

「水がコップに半分しか入ってないと考えるか、それとも半分も入ってると考えるか」って話がありますよね。せっかく自分が「半分も入ってる」ってポジティブシンキングした瞬間に、他人から「あ、半分しか入ってない」って言われるとイラッときたり。

 逆のケースもありそうです。私の知人に「絶望からはじめよう。キミには絶望が足りない」が口癖のひとがいます。私が「いや、そうは言ってもこういう良いところも」と返してると、ある日「キミの話を聞いてると、なんだかしらないけど落ち込んでくるんだよ!」って言われました。えっ、っていう。

 ここではおそらく、コップに水がどれだけ入っているかというよりも、そのコップの水面、境界線を「どのように領有するか」そして、境界線から相手をどのように突っつくか、が問題にされているのではないでしょうか。あんまり厳密には考えてませんけど。

 先ほどの「原発などのリスクについて『安全です or 何にでもリスクがある』を都合よく使い分ける」という構図を、歴史責任や途上国の搾取といった問題に適用してみましょう。「責任はない or 誰しも他人を犠牲にして生きている。反省するなら総懺悔」……なんか聞いたことがある感じですよね?

 余談ですが。サンデル先生が出すトロッコ問題などのパズルというのは、まさに「リスクや責任の境界線の上で踊ること、境界線の近くで他人を突っつくこと」半ばそれ自体が目的となっているような何かではないでしょうか。私にはそう思えるのです。